岡崎市西光寺は井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残っている

岡崎市鴨田町向山の西光寺は、井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残る寺です。

■西光寺の場所の住所■

岡崎市鴨田町向山38-1

>>西光寺の場所の地図

西光寺は高台にあり、そのふもとに平地が広がっていますが、この平地がかつての井田野(いだの)という場所で、戦国時代に数度、合戦が起こった場所です。

どんな合戦?

では井田野でどんな合戦が起こったのか?簡単に振り返ってみます。

(1)第一次井田野合戦

応仁元年(1467)、松平三代・信光と子の親忠(ちかただ:四代目)が、尾張の品野(現在の瀬戸市)・三河の伊保(現在の豊田市)の兵と井田野で戦い勝利します。

(2)第二次井田野合戦

明応二年(1493)、現在の豊田市各地の豪族が約4,000の連合軍で松平氏に攻めてきました。

上野城・阿部孫次郎、

挙母城・中條出羽守

寺部城・鈴木日向守

伊保城・三宅加賀守

八草城・那須宗左衛門

松平親忠は約2,000の兵を率いて井田野で迎撃。勝利します。

(3)松平清康による迎撃

天文二年(1533)松平七代・清康が三河に攻めてきた信濃兵(長野県)を井田野で迎え撃ちました。

(4)森山崩れ後

天文4年(1535)、松平清康が森山崩れで亡くなると、織田信秀が約3,000の兵で岡崎城に攻め寄せてきます。清康の弟である松平信孝と松平康考兄弟が約800の兵で井田野で撃退に成功。

(5)桶狭間合戦

永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を追ってきた織田の兵と僧兵が戦い、織田軍を撃退

記録に残るだけでも5回の戦がこの井田野で行われました。

千人塚

西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。これは応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。

塚の遠景。周辺の住宅地の中に溶け込んでいますね。

千人塚の中。いくつかの墓標が建っています。この千人塚自体、周辺から見るとこんもりしたものになっており、かなり大きな墓という事が分かります。

大衆塚

西光寺には、もうひとつ塚があります。それが本堂裏にある大衆塚です。

これは永禄三年の桶狭間合戦後、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を守り、織田軍と戦って亡くなった僧兵を埋葬した塚といわれています。

つまりこれも桶狭間合戦関連の史跡といえますね。

私の感想

大衆塚からは、かつての井田野が一望できます。私の感想ですが、この西光寺は松平氏の歴史を知る上で重要な寺院だと思います。それは大きな合戦の戦死者を埋葬した2つの塚が残るからです。

場所的に大樹寺や井田城跡と近いのでセットで訪れることができます。また入ってくる道は狭いので、車で訪れる時には注意が必要です。

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