岡崎市福岡町の土呂(とろ)城跡は、永禄六年(1563)の三河一向一揆後、石川数正が築いた城といわれています。
※土呂の読みは とろ
徳川家康の重臣で安城市出身の石川数正は、国宝・松本城天守を築いた人物としては有名なのですが、三河時代の遺構はあまり知られていません。
この三河土呂城は石川数正の三河時代を偲ぶ城跡とも言えます。しかし謎も多く残るのです。
なぜ二カ所ある?
現在、土呂城址といわれる場所は二カ所あります。ひとつは左側の○にある御堂山。そして土呂八幡宮境内がある○の御坊山。これはどういう事なのか?
御堂山の土呂城址の碑の側面をよく見ると、土呂城についての説明があります。画像だと小さいので、文章にしてみますね。
御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約220メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている(栗田古文書より)
碑の説明で行くと、御堂山が土呂城本丸で御坊山(土呂八幡宮)が二の丸と伝えられているとの事。少し離れているのでは?これに関してはいろんな事が考えられます。
では現地はどうなっているのか?行ってみましょう!
御堂山
まずは栗田古文書に土呂城本丸とある御堂山から。ザ・ビックエクスプレス岡崎福岡店の裏山みたいな場所です。入り口に土呂城址の碑があります。
御堂山の高低差。周辺より5mくらい高い場所にあります。
坂道を上がり御堂山山頂に登ってみると、もともとは寺があったのでしょうか?今では広い更地みたいな場所に蓮如上人土呂御墓址という石碑と墓所があります。
このくらいであとは土呂城に関する土塁や堀などの遺構みたいなものは残っていません。
御坊山(土呂八幡宮)
続いて土呂城二の丸と伝わる御坊山近くの土呂八幡宮。神社入り口の側に土呂城址の碑を発見!
これですね。碑は御堂山(本丸)と同じものです。
土呂八幡宮の創建は、奈良時代とも平安時代ともいわれますが、永禄七年(1564)の三河一向一揆の際、兵火に遭い、歴史を記したものは全て燃えてしまったそうでハッキリした事は分かっていません。
ただ、三河一向一揆後、石川数正が土呂八幡社を再建し、鏡二面を奉納しています。
現在の社殿は元和五年(1619)再建のもの。
狛犬。どこか穏やかな表情です。
御朱印
土呂八幡宮の御朱印は社務所で受けることができます。初穂料(御朱印料)300円です。土呂城址の御朱印と言えますね。
所要時間と私の感想
土呂城址といわれる御堂山と御坊山(土呂八幡宮)の所要時間は、歩いて巡って40分くらいです。
私の感想ですが、現地に行ってみると奇妙な事に気が付きました。それは本丸と伝えられる御堂山のほうが小さく、二の丸といわれている御坊山(土呂八幡宮)のほうがかなり大きいのです。
また見方によると、御堂山のほうは独立した小山ではあるのですが、出丸みたいにこじんまりとしています。
あと気になるのが、御堂山と御坊山の間を走る県道43号線が、かつての土呂西尾線という街道でもあることです。
2つの曲輪で街道を挟み込んでいて、もしこれが戦国時代のものであれば、土呂西尾線という街道を押さえた城だった事が分かります。
この街道や土呂城については、もう少し研究が必要ですが石川数正ゆかりの城が、岡崎市に残っているという点では、非常に興味深いですね。