豊田市鴛鴨(おしかも)町矢迫に残る鴛鴨城址は、徳川家の親戚だった鴛鴨松平家の居城跡です。現在は公園になっています。※鴛鴨の読みは おしかも
■鴛鴨城址の住所■
豊田市鴛鴨町矢迫72
鴛鴨城址の地形
まずは鴛鴨城址の地形を国土地理院地図の色別標高図で見てみます。すると鴛鴨城址は北から伸びる大地の突起部分にあることがわかります。南側は広く下がっており、南側から攻めると高台にあることがわかります。南側の防御を意識した立地です。
現地案内看板
現地案内看板ですが、平成二十三年に建てられており、読みにくい箇所もあるので文字に起こしてみます。
鴛鴨城址は鴛鴨松平氏初代から三代まで九十七年間(1468~1565)の居城だった。 三河松平氏三代目・信光は岩津に進出し岩津城を拠点にして、西三河一帯へ勢力拡大をはかった。
信光は応仁二年(1468)、押(鴛)鴨城へ攻め入り落城させ。その子親光を初代城主として住まわせた。 その後、鴛鴨城は二代親康・三代親久が継承し、四代忠久は徳川家康の命により、酒井正親の附人として西尾城へ移った。 永禄八年(1565)三代親久の死去により鴛鴨城は廃城となった。
鴛鴨松平家の墓所は隣松寺裏(現幸町隣松寺24番地)に整えられている。家康に寵愛され後に徳川四天王となった榊原康政の祖父・清長と父長政の墓もある。 康政の母は鴛鴨城主二代・親康の娘である。 また家康四男の福松丸(後の清洲城主となった松平忠吉)の養母として献身した四代・忠久の娘、於美津の墓もある。
末野原地域会議 平成二十三年度 地域予算案事業
ここのポイントは徳川四天王のひとり・榊原康政と鴛鴨松平家の繋がりです。簡単にいうと康政の母が鴛鴨松平家の女性で、榊原家に鴛鴨松平家の血が受け継がれているということ。
そして現地
鴛鴨城址が現在、公園になっています。主郭(本丸)と思われる場所には石碑が建っており、国土地理院地図の色別標高図の通り南側が低くなっています。公園整備の時に整地されたと思いますが、現在でも駐車場から曲輪の高低差は約3mありました。
石碑がある場所より一段低い広場もかつての曲輪だったのでしょう。現在ではベンチとテーブルが並べてありました。
所要時間と私の感想
鴛鴨城址の所要時間は看板読んで周辺をぐるっと見て周るくらいなので約10分ほどです。私の感想ですが、見るポイントは多くないものの、南側に向かって低くなっている地形が印象的でした。近くにある隣松寺からだと車での所要時間は約5分くらいなので、セットで訪れるとよいでしょう。