豊田市役所のすぐ東側に元城町(もとしろちょう)という地名があります。豊田信用金庫本店や愛知県豊田加茂福祉相談センターがある辺りです。元城というくらいなので、『もともとお城があったのかな?』と思いますが、じつはその通り、もともとお城があったので元城町という地名が付きました。
城の名前は挙母城(ころもじょう)。江戸時代に現在の名鉄三河線・豊田市駅周辺を治めていた挙母藩の藩主(つまり殿様)の城です。でも矢作川の水害で城をまるっと引っ越すことになりました。この記事では簡単に分かりやすく挙母城(桜城)の歴史を解説します。
江戸時代の城
徳川家康が江戸幕府を開いた後、現在の豊田市中心部を治めるために慶長九年(1604)に挙母藩(ころもはん)が設立されました。
その後、何人かの藩主が代わり、寛延二年(1749)内藤氏が挙母藩主になります。内藤氏は幕府から4,000両をもらい、挙母城を築こうとしますが、一揆や政争、また矢作川の洪水などで思うように進みませんでした。結局、度重なる水害のために途中まで築いた城を放棄して高台に引っ越すことになったのです。
今でも名残が残っている
まるごと引っ越したと書きましたが、残された隅櫓の一部の石垣が元城町1丁目の桜城址公園に残されています。
一部、近代に補修した様な場所があるものの、ほとんどは江戸時代の石垣といわれています。これも貴重な史跡ですね。
かつて愛知県の城を巡るコミュニティでもある愛知ウォーキング城巡りクラブで、この挙母城(桜城)を訪れた事があります。その時の意見としてあったのは以下の通り。
『町の中なのに櫓台が残っているのは貴重』
『どれだけ大きい城だったのか、様子を絵図等で知りたい』
『確かに矢作川が近くにあるので洪水に遭いやすかったのが分かる』
『上に登る事ができれば良いのに』
など。
ところで桜城址公園はその名の通り現在ではちょっとした桜の名所になっており、毎年3月下旬~4月上旬頃には満開の桜が楽しめます。
挙母城はどこに移転した?
洪水に悩まされた挙母城は水害に遭わない様に高台に移されました。その場所は現在の豊田市小坂本町8丁目の豊田市美術館周辺です。ちなみに移転した後、7つの国が見えそうなくらいの高台ということで七州城という別名も付けられました。今では豊田市美術館の西側に櫓が再建されています。