僧から還俗して武士になった松平氏初代当主・松平親氏は、松平郷近隣の土豪を切り従えるために勢力を拡大しますが、まず最初に戦うことになったのが林添(はやしぞれ)城主の薮田源吾忠元(やぶたげんご ただもと)です。
林添城址
その薮田源吾忠元の居城だったのが林添城址。別名・林添館。現在は神明社になっています。
神明社の入り口付近に車を停めてそこから階段を登りますが、山の斜面を削ってそのまま作ったんじゃないかと思われる急峻な階段なのです。休みながら登りましょう。
階段を登りきると神明社本殿があります。ここを本丸とするとその下にある林添ちびっこ広場が一段下になるので二の丸でしょうか。でもこの神明社自体、山の中腹みたいな場所にあって、奥は民家になっているので城跡と考えても縄張りがよくわかりません。
ただ周辺で気になるポイントがあり、林添城址を取り巻くように川が流れており、城址の前を通る国道301号線から西と東に旧道が伸びています。川に守られ松平郷から現在の豊田市立松平中学校がある九久平(くぎゅうだいら)方面に向かう道を押さえている様な場所です。
晴暗寺
林添城址の近くにある曹洞宗の寺院である晴暗寺には薮田忠元の供養塔があります。
もと三松庵と称した。江戸幕府編さんの『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、『信広(松平太郎左衛門家初代)、親長(同五代)、由重(同六代)は林添村の三松庵に葬る』とある。太郎左衛門家八代・信和(のぶふさ)の寄進によって、元禄八年(1695)堂宇を整え、晴暗寺と号するに至った。全記三者の宝篋印塔は、本堂の裏山にあったが、平成二十七年(2015)九月に晴暗寺境内に林添町より移転された。
境内の無縁仏中央のひときわ大きい墓石は、松平氏始祖・親氏に滅ぼされた林添の豪族・薮田源吾の供養塔と伝わっている。
令和四年三月 松平親氏公顕彰会
本堂横にはたくさんの無縁仏がありますが、その中央に江戸期くらいの墓碑があります。これが説明看板に書いてある薮田の源吾忠元の供養碑でしょう。
また隣には古い五輪塔もあります。これも看板に記載があった松平太郎左衛門家初代・松平信広、五代・松平親長、六代・松平由重の墓でしょう。
私の感想ですが、薮田源吾に関する記録は少なく、どの様な人物で、どの様に松平親氏に討たれたのかはハッキリと分かっていません。でも中世にこの地域を守っていた領主で、松平親氏の歴史を語る時に重要な人物だと思います。その理由は討たれたということは、親氏には従わなかったということ。だからやむなく滅ぼしたということではないでしょうか。薮田源吾の数少ない史跡が今回紹介した林添城址と晴暗寺の供養碑です。