愛知県みよし市にある福谷(うきがい)城は、室町時代に築かれたと伝わる城で、記録には城主に糟谷宗則、原田氏重の名があり、徳川四天王の酒井忠次も城主となっています。
福谷城は尾張と三河の国境近くの城で、弘治二年(1556)織田氏の三河侵攻により柴田勝家らによって攻撃されます。しかし松平(後の徳川)家臣・大久保忠勝、阿部忠政、大久保忠佐らが援軍として福谷城に入り、尾張勢を撃退しています。永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、織田と松平(徳川)は同盟を結んだので、福谷城は国境の城の役目を終え、廃城になった様です。
知名度は郷土史レベルの城ですが、織田と松平が戦った城でもあるので、これは貴重な城といえるでしょう。ではそんな三河福谷城跡はどんな城なのか?早チェックしてみたいと思います。
■福谷城跡の場所の住所■
みよし市福谷町市場
福谷城の遺構
福谷城のアクセスですが、みよし市福谷町市場にある城山保育園の南側です。この城山保育園の名前も福谷城跡から付けられたのでしょうね。現在では城山保育園の南側が本丸と考えられる場所ですが、城山保育園の場所もかつての城域だったのでしょう。
トイレが発掘されていた!
これは福谷城跡の縄張り図。かつて発掘調査があり、周辺の住宅地の中には隅櫓跡や曲輪跡が発見されました。ところでこの縄張り図をよく見てくると、貴重な遺構があります。赤い矢印の部分を拡大して見てみると…
なんと便所遺構!つまり厠(かわや)ですね。今でいうトイレの遺構です。城跡巡っていて不思議に思うのは、戦国時代のトイレの遺構がほとんど残されていないという事。城も籠城を考えて、必ずトイレがあったと思いますが、廃城後にいち早く土に帰ってしまうのか、城跡に戦国時代や江戸時代のトイレの遺構はなかなか残っていません。でもこの縄張り図を見ると、福谷城址には便所の遺構があった事が分かっています。
その場所が福谷城本丸の東北にある、福谷いこいの家があるところ。現在はキレイに整備されて、かつての福谷城の便所遺構は残っていませんが、ココからトイレの遺構が発見されたということですね。
私の感想
私の福谷城の感想ですが、遺構的には本丸曲輪と土塁くらいしか見るものがないと思いました。でも福谷城はシッカリとした発掘をしているみたいなので、縄張り図にあった遺構の場所に案内看板があると、もっと巡りやすい城だと思います。特に井戸や便所遺構は公共施設になっているので、駐車場等にその案内看板があると良いですね。