愛知県豊田市の大給(おぎゅう)城跡は、大給松平氏発祥の地で国指定史跡の山城です。
※大給の読みは、 おぎゅう です。
愛知県には尾張、三河含め、名城といえるものがいくつかありますが、そのうちのひとつに大給城址は入ると思います。では大給城とはいったいどんな城なのか?見どころのポイントを絞ってチェックしてみましょう!
大給城のアクセス
まず大給城の行き方ですが、大給城は車で行くのが便利です。国道301号線から脇道に入り、しばらく山を登ると大給城の駐車場に出ます。まずはカーナビで行く場合、大給城駐車場の住所は、豊田市大内町三本松というところですが、住所だとたぶんよく分からないと思うので地図を張っておきますね。
松平乗元の墓
それでは実際に大給城に登ってみます!駐車場に車を停めて坂を少し登ると、大給城の登城口に出るので、ここを上がります。
突き当りがあり、それを右に向かうと、大給松平氏初代の松平乗元の墓があります。松平乗元は、松平家四代当主・松平親忠の次男で、分家として大給松平家を起こしました。その乗元の墓ですね。ちなみに建てられたのは江戸時代です。
そして突き当りを左に行くと大給城址です。ここに国指定史跡の石碑もあります。
入り口に2カ所、虎口(こぐち)があります。※虎口の読みは こぐち
虎口とは簡単に言うと曲輪の出入り口です。攻めにくく守りやすい工夫が施されています。大給城の虎口の工夫はワザと道を折り曲げてあり、その向こうに城門を配置し、敵が城門を壊しているときに側面から攻撃できるようにしてあります。
大給城唯一の遺構、水の手曲輪
大給城には、他の城で見ることができない珍しい遺構があります。それが水の手曲輪です。水の手曲輪とは、簡単に現在の言葉でいうと小さなダムです。この小さなダムによって、飲み水の確保と敵を食い止めるという2つの効果がありました。
いつの石垣なの?
大給城内を進んでいくと石垣があります。石垣を見ると、『いつの時代のものかな?』と想像しますが、大給城は記録によると同族の滝脇松平家に天正三年(1575)年に襲撃を受けて落城しています。
その時に城は一度放棄されたのですが、天正十八年(1590)、徳川家康が関東に移封になると、大給松平氏も家康と共に関東へ向かったために大給城は廃城になったみたいです。つまり大給城の石垣は、歴史の記録をそのまま採用すると、天正三年(1575)以前の石垣という事になりますね。工法は野面積みという、自然石を組み合わせた石垣です。
でも大給城の石垣は安土城の石垣みたいに魅せる石垣ではなく、土留めのための石垣の様に思えます。
そして本丸
本丸は大給城内で最も広い空間です。隅に巨石があり、大給城址の石碑が乗っています。
これが石碑!
また周辺には巨石がたくさんあります。これらの巨石は常識的に考えると、下の川から運び込まれたものではなく、築城時から、いや、その前からこの地にあったものなのでしょう。
そして本丸から少し出てみると…うん?何やら手すりが付いた巨石があります。登ってみると…
遠いところに街並みが見えますね!当時はどんな景色だったのでしょうか?
ちなみにこの巨石には四角い穴がありました。案内看板によると、この小さな穴はいつなんのために開けられたかは不明との事。もしかすると、この巨石に物見台みたいなものがあり、そこから足軽が警護のために周辺を見渡していたのかもしれませんね。
あと少し下ったところに城主の居館跡といわれる策平地がありました。戦国時代、城主は城、つまり本丸で日常生活を送っていたみたいに思えますが、実はそんなことはなく、山城は有事の際に籠る場所で、通常はふもとの館で生活していました。織田信長は安土城天守で生活していたを言われますが、それは例外で、大給城主も城のふもとの館で生活していたんですね。
所要時間と私の感想
まず大給城の所要時間ですが、ジックリ周って、写真を撮りまくって、約1時間~1時間30分くらいだと思います。それなりに見るポイントは多いのですが、大給城自体コンパクトで見る部分も固まっていますので、所要時間はこのくらいですね。
また私の大給城の感想ですが、巨石や虎口、そして堀切や土塁など遺構が色濃く残っており、これらの遺構が天正三年(1575)年頃、もしくはそれ以前の遺構と考えると、非常に貴重なものだと思います。国指定史跡になっているのも分かりますよね。
あと大給城を訪れる時は、近くにある松平郷(まつだいらごう)をセットにする事をオススメします。松平郷とは、徳川氏の前身である、松平氏発祥の地です。車だと10分くらいの距離です。また大給城は隠れた紅葉のスポットで、11月中旬~下旬に訪れると紅葉も楽しむことができます。