豊川市大聖寺に今川義元の墓所があった!それが胴塚といわれる墓

豊川市牛久保町に大聖寺という寺がありますが、そこには今川義元の墓があります。

詳細に言うと、今川義元の胴体を埋めた胴塚(どうづか)と呼ばれるものですが、なぜここに今川義元の遺体を埋めた胴塚があるのか?話は桶狭間合戦にさかのぼります。

■大聖寺の住所■

豊川市牛久保町岸組66

大聖寺の地図

残った胴体

永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれました。

そして首は織田軍に持っていかれ、須ヶ口といところに晒されるのですが、戦場には胴体だけが残りました。

残兵たちは泣く泣く義元の胴体を駿河に連れ帰ろうとしますが、桶狭間合戦起こったのは旧暦の5月19日。現在の暦でいうと6月上旬くらいです。

当然、遺体は傷んでいきます…

『とても駿河までお連れすることはできない…』そう考えた兵たちは、まだ今川氏の勢力圏だった東三河の大聖寺に遺体を埋めることにしました。

良いこと考えた!

しかしここで課題がひとつあります。

もし義元の遺体を埋めた場所が織田軍や他の者に知れると、掘り返されるかもしれません。

しかし自分たちには埋めた場所が分からないといけません。そこで次の2つの条件を満たす必要がありました。

  1. 自分たちには埋めた場所が分かる
  2. でも他の人には分からない

この条件を満たす埋葬方法はないものか…つまり他の人には分からない目印があれば良いんですね。

そして兵たちは気が付きました!とりあえず義元の胴体を埋めて、その上に手水鉢(ちょうずばち:寺社の入り口にある参拝前に手を洗う鉢)を置いておく。こうすれば何も知らない人たちは手水鉢が転がっているだけと思いますが、自分たちはその下に主君(今川義元)の遺体があることが分かりますよね?

よし!名案だ!という事で、兵たちは義元の胴体を埋めた場所の上に手水鉢を転がしておき、そのまま駿河に退却したのです。

それからすぐ、義元討死の報せを受けた息子・氏真は、軍を率いて大聖寺を訪れ、義元の墓を整備したのです。その大聖寺は今でも残っています。

これがその今川義元の胴体を埋めたといわれる胴塚。現在では今川義元の墓所となって整備されています。しかし墓の一番下をよく見てみると…

なんと未だに手水鉢です。

桶狭間合戦後、目印のために転がしておいた手水鉢ですが、その後墓所が整備された後にも引き続き今川義元の墓の一部となっています。

氏真が整備した時、なんとでもなったのでしょうが、これがそのままとは、もしかすると氏真的に何かの想いがあったのでしょうか?

ところでこの牛頭山大聖寺は、かつての一色城の中にあります。つまり城の中にあった寺です。その一色城を築いたのが一色時家です。

一色時家は室町時代の足利氏の一族で、永享十一年(1439)に吉良の地よりここに来て一色城を築きます。

しかし家臣の波多野全慶に討たれてしまい、その波多野全慶も同じ一色氏の家臣だった牧野古白に討たれてしまい、結局、一色城は牧野氏のものになります。

その後、牧野古白は今橋城(後の吉田城の前身の城)を築いて移り、二男・成勝を城主にしました。この時から一色城は牛久保城(牛窪城)と改名されます。

大聖寺にはその一色時家の墓も残されています。

一色城の遺構も残っている

また大聖寺から東に60mほど行ったところに一色城の土塁が残されています。

土塁の側には一色城と一色刑部時家について簡単な説明も書いています。

私の感想

私の感想ですが、大聖寺は今川氏に興味がある人や桶狭間の戦いが好きな人は、是非オススメの史跡だと思いました。なぜかというと、ここは東三河に残る桶狭間合戦ゆかりの史跡だからです。

桶狭間合戦の史跡と言うと、名古屋市緑区や豊明市だけに残っている様に思えますが、実際には三河にもあります。

例えばこの大聖寺のほかに、義元が沓掛城に入る前に入城した永見氏の知立城などもそうですね。

大きなフレームで桶狭間合戦を見てみると、尾張地方だけではなく、三河地方にもゆかりの城や史跡があることが分かりますね。

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