羽柴秀吉自ら指揮をした小牧市外久保砦(久保山砦)は高低差と眺望がスゴい!

小牧市久保一色の外久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで羽柴軍が築いた砦のひとつです。現在は熊野神社になっています。

>>外久保砦の場所の地図

外久保砦の配置場所

外久保砦は秀吉本陣だった楽田城(犬山市)の前方を守る場所にあります。小牧市教育委員会によると、長久手の戦い後に秀吉が外久保砦に来て全軍を指揮したとありますが、その理由が高低差と眺望だと思います。その理由は楽田城は平地で低い場所なのですが、外久保砦は1歩出た場所にある高台だからです。長久手で敗戦した羽柴秀吉の緊張感が伝わります。

◆長久手の戦いとは
羽柴軍と織田・徳川連合軍の睨み合いが続き合戦は膠着状態になる。そこで羽柴軍の池田恒興が家康の岡崎城急襲を提案。秀吉は甥の三好秀次を総大将に岡崎攻撃隊を編成し進軍させる。しかし途中の岩崎城を落としている間に家康からの追撃を受け長久手で合戦に。徳川軍が勝利し池田恒興と森長可が討たれ多数の戦死者を出した。

現地看板

久保山砦跡

 天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で、羽柴(のちの豊臣)秀吉方の砦が築かれた。熊野神社一帯が砦跡で、東西八間(約14.4m)、南北十間(約18m)の規模であったという。秀吉方の武将・丹羽五郎左衛門長秀が守備した。長久手の合戦後は秀吉自らが本陣の楽田城(犬山市)からこの砦に来て全軍を指揮したと伝えられ、太閤山とも呼ばれている。

小牧市教育委員会

現地の看板には久保山砦と記載してありますが、この地区にもうひとつの羽柴軍の砦跡があり、それと区別するためにこちらを外久保砦とも呼びます。

そして砦跡

熊野神社本殿の裏に登れる道があり、頂上まで行くと削平地になっておりそこに砦跡の石碑も建っています。現在は木々に覆われていますが、この削平地で丹羽長秀や羽柴秀吉が陣幕を張って指揮をしていたのでしょう。

外久保砦のポイントのひとつが眺望。熊野神社時代高い場所にありますが、この眺望こそ秀吉が平城の楽田城から前進した理由のひとつだと私は思います。

敵だった徳川家康と織田信雄が本陣を置いていた小牧山が見えます。まさに睨み合い。

戦国時代とは関係ないですが現代の名古屋駅方面(名古屋市中村区)も外久保砦跡から見えます。この様に周辺をぐるりとかなり遠くまで見渡すことができたのではないかと思います。

外久保砦跡の所要時間は約20分。頂上まで登り写真を撮りまくっていたらそのくらいになりました。私の外久保砦の感想ですが、この高低差と眺望こそ砦を築くのにふさわしいと思いました。なぜなら高い場所は周辺の様子も分かるし、攻め込まれても守りやすいからです。周辺の砦群とセットで訪れてみましょう。

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