愛知県春日井市の名鉄間内駅前に浅井長政の銅像が建っている理由とは

愛知県春日井市の名鉄・間内(まない)駅前に、何やら戦国武将みたいな銅像が建っています。実はこれ、近江(滋賀県)小谷城主だった浅井長政なのです。

■浅井長政像の住所■

 春日井市牛山町

>>浅井長政像の地図

浅井長政といえば令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康で俳優の大貫勇輔(おおぬきゆうすけ)さんが浅井長政役ということで話題になりました。さて、なぜ愛知県春日井市に浅井長政の銅像があるのか?今回のオハナシは、少し意外な浅井長政についてチェックしてみましょう!

浅井長政って誰?

 浅井長政は、戦国時代に現在の滋賀県北部に勢力を持っていた大名で、織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻にした人物です。つまりに信長の義理の弟。信長とは当然仲が良かったのですが、信長は越前(現在の福井県)の朝倉氏を攻めます。これに驚いたのが浅井長政。なぜかというと、浅井氏は朝倉氏から祖父の代からお世話になっており、信長と同盟を結ぶ時にも、

『朝倉に対して何かをする時は浅井に必ず相談する事』という、取り決めがあったのです。でも?信長は浅井長政に何も言わずに朝倉氏を攻めます。これに浅井長政は大いに悩むわけです。

・先祖代々の縁で朝倉氏を助けるべきか?

・将来性を見込んで織田方として生きるのか?

 悩んだあげく、長政が取ったのは朝倉氏との縁でした。これにより信長の義弟・浅井長政は、朝倉氏と組んで織田信長と敵対しますが、姉川合戦で敗北。遂には居城だった小谷城まで包囲され落城。浅井長政は妻・お市の方と子供たちを城外に逃して、自刃して最期を迎えます。

なぜ愛知に銅像があるの?

ということで、近江小谷城の露と消えた戦国大名・浅井長政。その長政の銅像がなぜ愛知県春日井市にあるのか?実は全国区になっていないディープな戦国事情があるんです。小谷城が落城した時、長政には八重の方という側室がいて、八重の方は長政との子供・七郎君(ぎみ)を連れて小谷城から脱出。そのまま美濃(現在の岐阜県南部)に逃れました。

 そして文禄元年(1592)、七郎君が20歳の時に現在の愛知県春日井市に移り住み、慶安三年(1650)に没したワケです。しかし子孫は代々この地に住み続け、七郎から数えて九代目・新七は大正二年(1913)、故あって現在の神奈川県藤沢市に転居してしまいます。その時、先祖の霊を慰め、末永くこの地を後世に残すために旧宅内に浅井長政の銅像を建立し整備したそうです。ちなみに銅像が建立されたのは昭和57年(1982)1月吉日。

石碑もある

銅像脇に建つ石碑には次のように刻まれています。

江州(滋賀県)小谷城主浅井長政公(二十六万五千石)は朝倉義景との盟約により織田信長との戦いで天正元年(1573)八月二十八日これに敗れ二十九才で自害した。公の側室八重の方は七郎君を連れ美濃(岐阜県)に遁れた。 元禄元年(1592)七郎君二十才のとき此の地に移り慶安三年(1650)に没した。

以来子孫此処に居住 九代新七は大正二年(1913)故あって神奈川県藤沢市に転居し今日に至る 元屋敷1,447坪

春日井市議会議員 河村廣康 謹書

浅井家々系

長政ー七郎ー七臧ー弥臧ー新四郎ー常右門ー新左ェ門ー新四郎ー新左ェ門ー新七ー十代嗣ー武雄

浅井長政公逝って三百九十年

代々の祖先の霊を慰め末永く後世に此の地残すため旧宅地内に公の像を建立整備する

昭和五十七年(1982)一月吉日

浅井◯◯
浅井◯◯
浅井◯◯

私の感想

私の感想ですが、ココに郷土史レベルの戦国史の面白さがあると思います。その理由は、全国区になっていない戦国史のエピソードが残るからです。まず、浅井長政に側室がいること自体知られておらず、子孫がご先祖様を顕彰して先祖代々の地を離れる時に銅像を建立している、それ自体、まさにヒストリア。

でも浅井長政の血は、徳川将軍家にも流れていますが、また別の形で愛知県(尾張)にも流れていたのですね。この銅像が建っている名鉄・間内(まない)駅は、愛知県春日井市ですが、続日本100名城の小牧山城の近くなので、小牧山城を訪れた時にセットで巡ってみるのも良いかもしれません。

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コメント

  1. […] が大正時代に9代目の子孫が神奈川県に移住をし、旧宅がこの場所に残されましたが、昭和になり、先祖を顕彰するために子孫が銅像を建立されたという話があるそうです。※参考ページ […]