鳥居強右衛門勝商と妻の墓がある新城市作手の甘泉寺

新城市作手の甘泉寺には長篠設楽原の戦いで活躍した鳥居強右衛門と妻の墓があります。また境内のコウヤマキは国指定天然記念物です。

■甘泉寺の住所■

新城市作手鴨ヶ谷門前

>>甘泉寺の場所の地図

もしかすると参道は…

甘泉寺の駐車場を出て参道を登ると何やら意図的に折り曲げられている感があります。戦国時代、それ以前の寺は自衛のために防御の工夫をしていたケースがあります。もしかするとこの折れ曲がった参道も監視、側面攻撃のものか?と考えると山城みたいな寺です。

天然記念物

一般的に甘泉寺は天然記念物に指定されているコウヤマキが有名です。

推定樹齢600年なので戦国時代以前からこの地にあり歴史を見てきたのですね。

そして墓

コウヤマキの奥に鳥居強右衛門の墓があります。

鳥居強右衛門勝商の墓

 甲州の1万5千の軍勢は武田勝頼を総大将として三河に侵入し長篠城を包囲した。時に天正3年(1575)5月であった。この時長篠城内500の兵を率いて防戦したのは作手亀山城主・奥平美作守貞能(さだよし)の嫡男・貞昌(後の信昌:のぶまさ)で21才であった。攻防の末、5月14日城の食料庫が奪われてしまった。危急に際して援軍要請の使者となって岡崎の家康のもとに走ったのが強右衛門である。

 彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し岡崎に至りその使命を果たして帰城の途中篠場野で捕らえられた。武田軍から城内に向かって『援軍は来ないと伝えよ』と厳命されたが、『援軍はそこまで来ている。今少しの辛抱を。』と城内に向かって叫び、籠城兵を勇気づけた。

 16日磔の上で数本の槍に刺され壮絶な最期を遂げた。時に強右衛門36才、豊川市市田の出身である。因に妻は作手市場の生まれであった。

辞世の句『吾君の 命にかわる玉の緒を 何厭(いと)ひけん武士(もののふ)の道』

武士というより百姓に近かった鳥居強右衛門が辞世の句を本当に詠んだのかは疑問ですけど。鳥居強右衛門は令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康で岡崎体育さんが演じていろんな意味で話題になったと思います。

国指定天然記念物コウヤマキの樹勢を考慮し先人の鳥居強右衛門勝商の墓を二米(2メートル)移転する。発起人一同

石碑の側面に墓をズラしたことが書かれています。中身は?

強右衛門の墓の隣には妻の墓もありました。説明看板を見ると奥さんは地元で現在の新城市作手出身の女性だった様です。私の感想ですが、甘泉寺は続日本100名城の古宮城に近いので城巡りとセットで参拝できると思います。

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