新城市の道の駅・つくで手づくり村の道路を挟んだところにある慈昌院は、戦国時代に作手一帯を治めていた奥平氏の一族・奥平繁昌(しげまさ)の石橋城の跡です。
現地案内看板
石橋城は、奥平二代貞久の二男、弾正久勝が最初の城主で、近辺の地名『石橋』を称し、三代貞昌の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌は、天文六年(1537)九月、主君への謀反が露見し、四代貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討ち死にした。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。
現在でも、四方土塁の腰に石祠を確認することができる。
後年になり、当山の第二世・徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主・貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、『石橋山慈昌院』とした。
作手村(現在は新城市)
奥平一族の内紛ですね。分家の奥平繁昌が宗家に謀反を企てていたのがバレて、逆に宗家に成敗されたということ。その奥平繁昌の館城が石橋城。その跡地に慈昌院があります。
案内看板には縄張図も付いていました。これをみると1つの曲輪です。館の周辺に堀と土塁を巡らせて防御を固めた館城(やかたじろ)というもの。
遺構を見てみる
では巡ってみます。まず石橋城址自体が旧街道の国道301号線を見渡せる高台にあることが分かります。これは防御のため。そして街道の様子をチェックできます。
境内奥には土塁もあります。今でもハッキリと分かるくらい残ってます。
土塁の裏には堀も残っていました。この堀を掘って出た土を盛り上げて土塁を作ります。堀と土塁は基本、セットです。
私の新城市(旧作手村)石橋城址の感想ですが、土豪の館城の縄張りが今でもよく分かる城跡だと思いました。あと注意事項ですが巡る際には慈昌院の方に許可をもらって散策しましょう。所要時間は10分ほどなので、近くにある古宮城址や道の駅の裏山の亀山城址とセットで楽しめると思います。