赤備え軍団を率いた山県昌景最期の地・長篠設楽原古戦場の墓

新城市の設楽原(したらがはら)古戦場に山県(縣)の地名という看板があります。ここは以前、山縣という地名で、その由来が武田軍の山県昌景が討ち死にした最後の場所ということで付けられた地名なのです。

■山県昌景の墓の住所■

新城市竹広498

>>山県昌景の墓の場所

山県昌景とは?

山県昌景とは戦国時代に武田信玄、武田勝頼に仕えた武将。三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に追い詰め、徳川家康からも恐れられた猛将でした。新城市の設楽原古戦場に長篠・設楽原合戦屏風図がありますが、そこに山形昌景も描かれています。

長篠・設楽原合戦屏風図ではすでに討ち死にしており、家臣の志村又右衛門が昌景の首を敵に奪われないように持ち去っています。織田信長の一代記・信長公記によると山形昌景は長篠設楽原の戦いで武田軍の一番手でしたが、鉄砲で迎撃され退却しました。

山形昌景は朱色の甲冑で統一された部隊・赤備え(あかぞなえ)を率いており、武田家滅亡後、その赤備え軍団の多くは徳川家に召し抱えられ井伊直政に預けられました。ですから世にいう井伊の赤備えは武田軍の山県昌景の赤備えを引き継いだものなのです。

そして墓

看板の奥には山県昌景の墓につながる道があります。看板から徒歩数分の場所にあるのですぐです。

山県昌景の墓

山の中腹みたいな場所に山県昌景と家臣たちの墓があります。

山縣三郎兵衛昌景之碑。

高坂又八郎助宣の墓。この人は武田四天王のひとり高坂昌信(高坂弾正)の親族と言われている武将。

山縣(山形)甚太郎昌次は武田家の侍大将・三枝虎吉(さいぐさとらよし)の息子で山縣(山形)昌景の養子となった人物。名取又左衛門道忠は山県昌次の従者。山縣甚太郎昌次の最後について「長編長篠軍記」を要約すると以下のように記されています。

山県昌景は徳川軍の大坂新助の鉄砲で額を撃ち抜かれ落馬して討死。この時、山縣の嫡子昌次は養父・昌景の討死を知ると、すぐに刀をくわえて馬より落ちて父の後を追いました。従士だった名取又左衛門道忠は手早く首を打ち落として抱いて立ち去り、山形の地で自らの命を絶ったのです。

その場所が現在2人の墓が建つあたりだと考えられています。

設楽原古戦場いろはかるたは山県昌景についても詠んでいます。山形の最後胴切りの松に秘め

山県昌景の墓近くには無名の墓がたくさんありました。おそらくはここで亡くなった方々の墓なのでしょう。

所要時間と私の感想

山県昌景の墓の所要時間は参拝だけなので数分です。私の感想ですが、武田軍の山県昌景は猛将として知られているだけにその最後の場所が設楽原に残っているのは印象的でした。令和元年のNHK大河ドラマ・どうする家康では、俳優の橋本さとしさん演じる山県昌景がかなり貫禄があったのを覚えています。

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