16歳で処刑された奥平貞昌の妻・於フウ(おふう)の処刑地コオリ坂に建つ墓

於フウ(おふう)とは長篠設楽原の戦いで長篠城を武田軍から守りきった奥平貞昌(奥平信昌)の妻だった女性です。その墓が新城市立鳳来寺小学校の南側に建立されています。

>>おふうの墓の地図

奥平信昌の妻って亀姫では?

大河ドラマ・どうする家康では俳優の白洲迅(しらす じん)さんが奥平貞昌を演じ、徳川家康の長女・亀姫(當真あみさん)と結婚したことが描かれていましたが亀姫の前に妻がいました。それがおふうです。

おふうは三河日近城(岡崎市:旧額田町)主・奥平貞友の娘といわれています。作手亀山城の奥平貞昌に嫁ぎましたが、元亀元年(1570)奥平氏は武田に付くことになり、人質として13歳のおふう、10歳の仙千代(貞昌の弟)、13歳の虎之介(奥平勝次の息子)を武田に送りました。

しかしその後、奥平氏は徳川へ寝返ったため、3人は天正元年(1573)に処刑されてしまいます。おふうは武田四天王の数えられた山県昌景により磔にされたと記録にあり、その場所がコオリ坂とのこと。

そしてコオリ坂

そのコオリ坂は新城市立鳳来寺小学校の南側にあります。県道32号線からおふう(於フウ)の墓に向かう道があるのでそこから坂を下ります。

墓の前に立つ看板。汚れてて読みにくいので文字を起こしてみます。

人質 於フウ 処刑の地

(日近城主奥平貞友の女)

 作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の次男仙丸、萩城主周防勝次の男虎之介と共に人質として甲州に差遣はされたが、天正元年(1573)貞能親子が徳川氏に帰参したのを怒った武田勝頼の命により、山県昌景によって同年9月21日にこの地において処刑された。享年16才。

おふうについては、新城市立長篠城址史跡保存館が発行している戦国人質物語に詳しく記載されています。それによるとコオリ坂のこの墓は地元の有志の方々の寄付により建立され、昭和54年(1979)9月21日に除幕式が行われました。この除幕式には奥平17世・奥平昌信氏も参列したそうです。

墓の下が処刑地

コオリ坂の於フウの墓の下に処刑の地という石碑があります。そこから見てみると山道が下っていました。現在では何も残っていません。

私の感想

私の於フウの墓の感想ですが、大河ドラマには出ない戦国時代の少女の処刑地ということで、郷土史に興味が出る人が増えればと思います。ちなみにここで磔にされ処刑された於フウですが、遺体を埋葬した場所は実家である日近城のふもと広祥院です。そこに於フウの墓があります。

あと私が於フウの存在を知ったキッカケは、新城市立長篠城址史跡保存館が発行している戦国人質物語です。この本は読みやすく、於フウの処刑地を聞き込み調査で探し出すドキュメンタリーになっています。長篠城の資料館なので、長篠城に行ったときに是非、チェックしてみてください。(通販でも購入できます)

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