長篠城の監視隊長だった武田軍の高坂源五郎昌澄の墓

新城市川路には天正三年(1575)の設楽原の戦いで亡くなった高坂昌澄の墓があります。

高坂昌澄の墓

昌澄は武田四天王といわれた高坂弾正忠昌寅(高坂昌信)の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには二十五才の若さで、兵二千を率いる武将として戦った。

昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武田勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川の将、稲生次郎左衛門との戦いここに敗れた。

稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったという。

令和五年(2023)十二月更新 設楽原を守る会

>>高坂昌澄の墓の地図

父は武田四天王

高坂昌澄の父は武田四天王のひとり高坂弾正昌信(こうさか だんじょう まさのぶ)です。撤退戦が得意で逃げ弾正という異名をもつ戦上手の名将で知られています。

高坂弾正昌信
長篠設楽原の戦いでは上杉勢に備え信濃海津城を守る。勝頼敗報を聞くと勝頼を信濃駒場まで出向き迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮したという。

高坂昌澄と似たような働きをした武将が山本勘三信供です。彼は武田信玄の軍師といわれた山本勘助の息子で、設楽原の南端で戦っており、最後は徳川軍めがけて斬り込みました。高坂昌澄は連吾川を越えた場所に墓があるので、織田・徳川連合軍の南端を突破したところで討たれたようです。

私の感想

私の感想ですが、高坂昌澄は25才で戦死しているので、もしここで討たれなかったらどの様な働きをしていたのだろうと思います。武田滅亡に準じたのか、それともその後があったのか?若くして散った武将の墓がここにもありました。

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