新城市作手の三河亀山城の近くに城主と妻の墓といわれる塚が残っています。
亀山城二代城主奥平貞久の夫人の墳墓。夫人についての詳細は不明であるが嫡男・貞昌以下六男の母として奥平氏後半の基礎を築いた名夫人である。村人はその徳を偲び、塚を設け姫塚と称し、今日に伝えている。(一説にはこの塚を武士塚と呼ぶ人もいる)
昭和六十二年九月十日 作手村文化財専門委員会
姫塚の後ろにまわると高低差も確認できます。これがひとつの墓と考えると大きいです。
武士塚
そしてこちらは武士塚。茂みの中に看板があります。
亀山二代城主・奥平貞久の墳墓。貞久は応永二年(1395)作手で生まれ、監物と称し、後に出羽守道頓と改めた。貞久は作手三十六ヶ村のほかに近隣の額田、宝飯郡の一部を領有し、嫡男・貞昌以下六子に領地を分け与え、家臣団を作り、大いに権力を誇った名君である。(一説には、この塚を姫塚と呼ぶ人もいる)
昭和六十二年九月十日 作手村文化財専門委員会
塚の距離からと感想
武士塚と姫塚間の距離は80mほど。かなり近くです。この距離から思う私の感想は、もしかするとこの場所にはかつての菩提寺があったのではないか?ということ。その理由はこの地の有力者夫婦の墓なので、野ざらしの塚に埋葬するという事例は考えにくいからです。
奥平貞久の生没年は分かっていません。しかし息子・奥平貞昌が生まれた年は宝徳三年(1451)なので、貞久が亀山城主だったのは応仁の乱以前の時代です。その時にはこの辺りに奥平氏の菩提寺があったのかもしれません。