馬場信房(美濃守)が討ち死にしたといわれる新城市出沢の史跡

新城市出沢には武田四天王のひとり馬場信房が討ち取られたと伝わる場所があります。この周辺は武田軍の敗走ルートといわれ、多くの兵士が討ち取られた場所でもあります。

>>馬場信房の塚の地図

馬場信房の塚

馬場美濃守信房(信春)は武田三代に仕えた智謀の老臣である。設楽原では北部戦線で最後まで奮戦し、主君勝頼の戦場退去を見届け討死した。相手側の信長も『手前之働、無比類』と讃えた。

・戦死の地は、この北側『藤生道(ふぢじゅうみち)』を登った小高い山際で『緒巻桜(おまきざくら)』の石標がある。

・慶長の『戦場考』は、息子の彦五郎の塚もここ前畑にあったという。

平成二十八年春東郷の戦国史跡の会

馬場信房の塚は、あくまで塚で顕彰碑みたいなもの。実際に討ち取られた場所は塚から500mほど離れた場所にあります。

橋詰殿戦場

塚から北に進むと橋詰殿(はしづめ しんがり)戦場の石碑があります。

馬場美濃守戦死の地

天正三年(1575)織田・徳川連合軍と武田軍の間で戦われた長篠・設楽原の戦いは、武田方の惨敗に終わった。馬場美濃守は敗走する主君勝頼を助けながら勇敢に戦い、勝頼が逃げのびるのを見届けた後、敵に自らの首を与えたと伝えられる。ここから右手の道を登った所に標柱が建てられている。

新城市教育委員会

討死場所の行き方

信房が討たれたといわれる場所へのアクセス方法をお伝えします。まず看板のある場所をよく見てみると、山の上に登る道があるのでそのまま上がります。

ずっと細い道を登って行きますが生い茂っていないので歩きやすいです。

すると緒巻桜ふぢう道(藤生道)という石碑があるのでそこを登ります。

石碑のすぐ上に緒巻桜と馬場美濃守討死之地と刻まれた石碑があります。どうもこの細い道が旧街道のようで、殿(しんがり:退却軍の最後尾に付き追手を食い止める役割)を務めていた馬場信房はこのあたりで討ち取られたと考えられています。

合戦図屏風にも

このときの馬場信房も長篠設楽原合戦屏風絵図に描かれています。この時は追ってくる織田・徳川連合軍の追撃を食い止め、そのすさまじい働きは信長公記にも記載されています。

信長公記
なかでも馬場信春(信房)の討ち死に直前の活躍は比類のないものであった。

現代語訳信長公記 新人物往来社 中川太古訳

設楽町の墓

馬場信房の墓はいくつかあります。設楽町・福田寺(ふくでんじ)にも武田信玄と馬場信房の墓があります。影武者なのか、分骨なのか、それとも…

所要時間と私の感想

馬場信房の討死之碑はふもとから約3分ほどで着きます。私の感想ですが馬防柵が再現されている主戦場からここまでの距離はかなり離れています。逆にいえばその間で戦闘(といってお追撃戦)が行われていたのでしょう。そう考えると古戦場もかなり広いと思いました。

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