新城市鳳来寺の参道入り口に戦国時代の人物の墓があります。これは武田の人質となった奥平仙千代(仙丸とも)の墓です。
作手(新城市)周辺を拠点にしていた国人領主・奥平定能(さだよし:貞能とも)は、単独での存続が難しく、武田氏もしくは徳川氏どちらかに付くことになりました。悩んだ結果、武田氏に付くことになり、人質として仙千代、虎之介、おふう(於フウ)3名を武田氏に送ります。
しかしその後、奥平氏は徳川に付くことになり、人質3人は武田に処刑されました。その中で仙千代が殺害されたのが門谷の金剛堂前(鳳来寺)といわれており、仙千代の墓が建立されています。
墓は地元の方々が手入れしているそうです。
奥平仙千代の墓
作手の奥平貞能とその子貞昌(後の長篠城主)は元亀2年(1571)武田信玄に降伏したので、次男仙千代らを武田方へ人質煮出すことになった。天正元年(1573)になって貞能親子は武田氏に背いて徳川家康についたので、武田勝頼は、彼を門谷の金剛堂前で処刑したという。新城市教育委員会
私の感想
私の奥平仙千代の墓の感想ですが、戦国時代の人質の話はあまり多く残っておらず、貴重な史跡だと思いました。また仙千代の処刑の後、乳母がさらされていた仙千代の首を奪い去り、その時に首をくるんだ血染めの打敷(うちしき)が残されています。