新城市設楽原古戦場には、かつて武田信玄に仕えた軍師といわれる山本勘助晴幸の息子・山本勘蔵信供の墓があります。
山本勘助晴幸とは
武田信玄に軍師として仕えたといわれる山本勘助晴幸は静岡県、または愛知県三河地方の生誕といわれ、永禄四年(1561)の第四次川中島の戦いで亡くなっています。
兵法はもちろん築城にも長け、長野県の小諸城は勘助が縄張りを考えたといわれます。また同じ武田軍で築城の名手として知られる馬場信房(美濃守)は、山本勘助晴幸から築城術を学んだともいわれます。
ちなみに平成十九年(2007)NHK大河ドラマ・風林火山は内野聖陽さんが山本勘助を演じました。(ちなみに武田信玄は市川猿之助さん、上杉謙信はGacktさん)
そして息子・山本勘蔵の墓
山本勘蔵信供の墓の前には設楽原をまもる会の説明看板があります。
信供は武田二十四将の一人で、武田信玄の軍師といわれた山本勘助晴幸の子として弘治二年(1556)、山梨県高根で生まれ、天正三年(1575)五月、設楽原の戦いに二十才の若さで討ち死にした。
信供らは、はじめ高坂昌澄たとともに、長篠城監視隊として、寒狭川沿いに備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に集結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦した。
しかしこの時すでに遠く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前に石を建て祀ったという、後に一石五輪塔がまつられた。
令和五年(2023)十二月更新 設楽原をまもる会
看板の後ろに勘蔵の墓碑があります。
古戦場の南端だった
山本勘蔵信供の墓がある場所は設楽原古戦場の南端です。設楽原古戦場といえば馬防柵がある場所周辺で織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかったと思われています。しかし馬防柵がある場所は中心の一部分で実際の戦場は南北になかり長いものでした。
天正三年(1575)に織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかった #長篠設楽原合戦 に #武田信玄 の軍師・ #山本勘助 の息子である #山本勘蔵信共 が20歳で出陣していました。戦場の最南は #馬防柵 も無かったらしくここから #徳川家康本陣 を目指しましたが果たせず… pic.twitter.com/g8iP7N3OqK
— 愛知戦国史跡ナビゲ-タ-・みかわのひで (@mikawanohide) July 10, 2024
私の感想
私の山本勘蔵信供の墓の感想ですが、もし20才の若さで討たれなかったらどんな活躍をしていただろうと思いました。またマイナーな武将になると思いますが、父・山本勘助晴幸も合戦で亡くなっていますので、親子とも武田と共に戦った武士だったと思います。