天正三年(1575)年5月に武田軍と織田・徳川連合軍が戦った新城市の設楽ヶ原古戦場。現地の織田・徳川連合軍側には、馬防柵(ばぼうさく)が再現されています。馬防柵とは、一般的に武田軍の騎馬部隊を防ぐために作られたといわれ、【馬を防ぐ柵】ということから馬防柵と呼ばれる様になりました。
しかし騎馬部隊が無くとも、敵が自分たちの陣地にスンナリと入り込まないように、防御のための柵はどこの戦場でも作っていたのでしょう。ちなみに戦国時代の城も曲輪の周辺には、この様な柵を巡らせていた事が分かります。
さて、そんな再現された馬防柵なのですが、設楽ヶ原古戦場の場合、奥に進むと興味深いものがあります。それが名和式鉄砲構えです。
変わった?馬防柵
これです。この名和式鉄砲構えとは、簡単にいうと時代考証家でもあった名和弓雄氏(故人)が考案・復元した堀と土塁がセットになった馬防柵です。
名和式鉄砲構えの簡単な説明。これをみると乾堀(空堀)、馬防柵、土塁の三段構えで作られていた事が分かります。具体的に見ていきましょう。
馬防柵の堀
まず柵の前には空堀があります。この空堀により敵は一度、くぼみの中に入らなければ前に進めず、進軍速度が落ちる上に余計な労力が必要になります。
そして土塁
そして堀を掘って出てきた土を盛り上げると、そのまま土の壁である土塁になります。堀に落ちた敵はこの土塁を登らなければ、先に進むことはできません。
しかし土塁にも工夫があります。それは火縄銃を固定できるくぼみです。このくぼみの上に火縄銃を乗せ、敵が近づいて来たら発射!という備えになっていたのでしょう。ちなみに当時の火縄銃の射程距離は約1町(110m)ほどと考えられています。
さらに柵の上をみると、なんだか枝が荒削り状態で残っています。実はこれはワザと残した部分なのです。柵をよじ登る時、もしこの枝の部分に手をかければ、細いので折れてしまい、うまく登る事ができません。
では枝に手をかけずに登れば普通に邪魔になる障害物。甲冑の草摺(くさずり)や袖(そで)に引っかかり、モタついてしまいます。これも防御の工夫なんですね。
つまり名和式鉄砲構えとは分かりやすくいうと、堀⇒柵⇒土塁の三段構えで防御し、さらに至近距離から火縄銃で攻撃できるという防御施設なのです。武田軍からしてみれば、敵の目前まで迫っておきながら、堀や枝付きの柵にモタついているところを火縄銃で攻撃されていたのでしょう。この名和式鉄砲構えは、設楽ヶ原古戦場の馬防柵の奥にあるので、訪れた方は是非、チェックしてみてください。