武田勝頼を逃がす笠井満秀と瀧川助義が一騎打ちした新城市寒狭橋跡

新城市寒狭峡は天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで、退却する武田勝頼を追う敵を食い止めた笠井肥後守満秀が、瀧川助義と一騎打ちした場所といわれています。

>>寒狭橋跡の場所の地図

笠井満秀とは

南部宗秀の子として生まれた満秀は河西氏、笠井氏を名乗り武田信玄、勝頼に仕えました。天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで武田軍が退却をする時、勝頼の馬が急に動かなくなります。笠井満秀は勝頼を自分の馬に乗せ、自らは追ってくる敵を食い止めます。

そこに滝川一益の家臣・滝川助義(瀧川助義:源左衛門)が迫り一騎打ちになりました。満身創痍の満秀はここで討たれてしまいますが、助義も翌日に満秀から負った傷口により死去します。これにより結果は相討ちといわれています。

現地に行ってみる

寒狭峡の岩場に瀧川助義と笠井満秀の相討ちの石碑が立ってます。

こちらは設楽原古戦場いろはかるた。2つありました。

この地は笠井満秀と瀧川助義が一騎打ちしたほか、多くの武田軍が討たれた場所でもあるのでしょう。また近くには武田四天王のひとり馬場美濃守信房が討たれた地もあります。

私の感想ですが、この場所は設楽原古戦場から直線距離でも6kmほど離れています。その間に多くの武田軍兵士が追撃を受け討ち取られたと思うと、戦場の広さを実感できました。この地もまた古戦場なのです。

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