戦国時代に武田軍と織田・徳川連合軍が戦った新城市設楽原古戦場に甲田(こうでん:かぶとだとも)という地名(旧字名)があります。甲冑の【甲】という字なので、鎧武具に関係するのかな?と思って調べてみたら、なんと兜に関係する地名だったのです。そのルーツはやはり天正三年(1575)年の長篠設楽原の戦いでした。長篠軍記、参州長篠戦記、甲陽軍鑑にほぼ共通の話として残っているので紹介します。
敗れた武田軍
学校の教科書にも出てくる長篠設楽原の戦いは、織田・徳川連合軍が火縄銃を有効に使い勝利します。そこで武田軍の敗走が始まるのですが、総大将の武田勝頼も領国だった信州(長野県)方面に向けて敗走します。
その時、武田勝頼は諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと:武田信玄も愛用していた長い毛が付いた兜)を家臣の初鹿野(はじかの)伝右衛門に持たせました。しかし真夏の暑い日だったので、伝右衛門はとても疲れており、誤って兜を田んぼに落としてしまいます。
それを見た同じ武田軍の小山田弥助は『武田家の大事な兜なのでもったいない!』と言って拾い持ち帰りました。このやり取りから甲田の地名が付いたといわれています。
現地には設楽原をまもる会によって建てられた、設楽原古戦場いろはかるたに詠まれた甲田の地名について書かれていました。
周りは今でも田んぼなので、この田んぼのどこ辺りに兜をおとしたのかまではわかりません。ところで武田勝頼はこの後、武田軍に従っていた菅沼氏の居城・田峯城(設楽町)を目指しますが、留守を守っていた家臣がから入城を拒まれて、菅沼氏と共に武節城(豊田市)に向かい、そこから信州へ帰っていったといわれています。
私の甲田の感想ですが、全国的に知られていない郷土史ゆかりの史跡なので、武田氏や武田勝頼が好きな方は設楽原古戦場とセットで訪れてみるのもよいと思いました。