天正三年(1575)年の長篠設楽原の戦いで武田軍には武田騎馬隊は存在しなかったと言われていますが、信長公記には武田軍に騎馬隊が実在していたことが書かれています。それが西上野(にしこうずけ)の小幡信貞率いる赤備えの部隊です。
小幡信貞とは
小幡信貞(信真:のぶざねとも)は、武田二十四将にも数えられた戦国時代の武将。上野国甘楽郡小幡郷(群馬県甘楽郡甘楽町小幡あたり)の国衆でした。国峯城城主でもあり、もとは、関東管領の山内上杉家に仕えていましたが、後に武田氏に仕えます。『甲陽軍鑑』によれば父・憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大クラス。
この小幡信貞が長篠設楽原の戦いに武田軍として出陣していますが、織田信長の一代記である信長公記(しんちょうこうき)に騎馬隊を率いていたという記述があるのです。
信長公記にはこう書かれている
最近では長篠設楽原合戦の武田軍には、武田騎馬隊は存在しなかったといわれていますが、実際には騎馬隊は実在していたこととがわかります。
小幡信貞の墓
そんな小幡信貞ですが設楽原古戦場に墓があります。場所は資料館の坂の下の県道沿い。小高い丘みたいな場所にのぼりが立っています。
これが設楽原古戦場に残る小幡上総介信貞の墓。
ちなみに小幡信貞は長篠設楽原の戦いで討死してはおらず、武田氏滅亡後は織田氏、北条氏に仕え、北条氏滅亡後は真田昌幸を頼り、信濃塩田郷(長野県上田市)で天正二十年(1592)に52歳で亡くなっています。
私の感想ですが、新城市の設楽原古戦場に残る小幡上総介信貞の墓は、小幡信貞のものではなく、小幡隊の誰かの墓なのだと思います。ではなぜここに小幡信貞の墓があるのかというと、私の仮説ですが小幡隊の働きがあまりにもすさまじく、また織田徳川連合軍から見ても派手に壊滅したので、きっと信貞も討死したという認識だったのではと思います。
※ちなみに信長公記には小幡信貞は討死と記載されています。