長篠設楽原の戦いといえば馬防柵(ばぼうさく)が有名ですが、合戦はその南北で激しく行われていました。馬防柵から北に進むと、のどかな田園風景が広がっていますが、そこの川岸に石碑がひとつ立っています。じつはこれ上州産(群馬県)の矢立硯(やててすずり)の発見場所なのです。
矢立硯とは
昭和三十九年春、この看板の位置より六〇メートル程南の下流に堰提が造られたが、その工事中に青みがかった小さな硯が発見された。縦116ミリ、横29ミリ、厚さ12ミリの細長い形で、長年使ったものらしく中央部はかなりのへこみを見せている。
これは『矢立硯』で、筆や小刀などとともに桧扇(ひおうぎ)型の硯箱に収め、矢を差し入れておく箙(えびら)や鎧の引き合いに入れて携帯したものである。陣中において、武士たちの戦功を記録するのに用い、時には歌や句の詠み草(よみぐさ)や手紙をしたためるのに使った。
硯刻家(けんこくか)名倉鳳山氏の調査・鑑定によれば、硯材は橄欖岩(かんらんがん:火成岩の一種)で、上州(群馬県)沼田の在の川揚村産とのこと。」 この発見場所は、設楽原の戦いの中でも激戦地で、多くの上州武者が討ち死にし、真田兄弟が倒れたのもこのあたりであることを思うと、この矢立硯は上州武者の携帯したものと推測され、四百年間土中に埋もれて保存されてきた『物言わぬ”戦いの証人”』といえる。
硯は現在長篠城址史跡保存館にある。
昭和六十二年七月九日(再建 平成二十一年七月九日)
設楽原をまもる会
この矢立硯の所有者は分かっていません。おそらく武田軍の名のある武士なのでしょう。その理由は、もし雑兵なら記録に残す文字をちゃんと書けないと思います。読める文字、分かる日本語で記録を書くので、ある程度の教育を受けた者、つまり武士だったと私は思います。
今では硯の発見を示す石碑が建つのみです。この周辺は織田軍の佐久間信盛と武田軍の馬場信春(美濃守)が争奪戦を繰り広げた丸山砦がありますし、真田信綱、昌輝兄弟が討ち死にしたと考えられる場所もこのあたりです。亡くなった方の中に武田軍の記録係の武士もいたのでしょうね。