新城市作手の川尻城は関東から来た奥平貞俊がこの地で始めて築いた城

新城市作手の川尻城址は関東からこの地へとやってきた奥平貞俊が奥平氏の城として始めて築いた拠点です。応永31年(1424)頃なので応仁の乱前の城です。

>>川尻城址の地図

看板

川尻城址

 天授年間(1375~81)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手南部の川手領主・山崎三郎左衛門高元を頼り、現在の群馬県から新城市作手地区に移り住み、甘泉寺に身を寄せている間に勢力人望を得ていった。そして、新城市作手白鳥の善源寺の『亀山後伝記』によると、応永31年(1424)に川尻城を築いたとされる。

 標高570m、比高差40mの独立丘で、山上の本丸は東西75m、南北32mの楕円形をしており、当時は周囲に土塁をめぐらしていたと考えられる。後に貞俊はここから南西に約2.5Km離れた新城市作手清岳に亀山城を築き移った。

新城市教育委員会

いざ城へ!

川尻城は小高い平山城で登っていく途中で国道301号線沿いの景色が見えます。米福長者の屋敷を見下ろす様な場所です。

入口の冠木門(かぶきもん)から入ります。もちろん後世に作られたものですが、城の雰囲気が出てワクワクしますね。

曲輪の端には柵も復元。敵の侵入を防ぐためにもちろんこの様な柵はあったと思います。

このアングルどうですか?曲輪は一段高い場所にあり周辺にはいろんな遺構が残っています。

本丸前にくぼんだ場所が!ここが案内看板にあった土塁をともなう堀切でしょう。城内のしかも本丸背後に土塁とセットの堀切があるとは、あまり見ない縄張りの事例です。

そして本丸。広い削平地になっており休憩できるベンチやトイレがあります。また忠魂碑の石碑がある場所は高台になっており、もし当時の遺構だとすると物見櫓みたいな建物があったのかもしれません。

本丸のポイントのひとつが侵入してくる敵を上から攻撃できる点。先程の冠木門を見下ろせる場所に本丸があります。川尻城が築かれた応永31年(1424)頃の三河山間部の城攻めなら、数百くらいの敵兵なので十分に防げる仕組みです。

個人的に気になったのが背後の道路。川尻城の案内看板には比高差40mの独立丘とありますが、山と近すぎます。山の中には堀切みたいなものは無かったです。これは私の仮説ですが、もしかすると道路は堀切の跡では?と、見えてしまうポイントのひとつです。

所要時間と私の感想

川尻城の所要時間は約30分ほどでした。私の感想ですが、こじんまりとした平山城ですがいろんな遺構が良好に残っており、中世の平山城の雰囲気をたくさん感じることができる城だと思いました。作手には亀山城や続日本100名城にも認定されている古宮城もあるのでセットで訪れるとよいです。

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