小牧市小牧4丁目の蟹清水砦跡は天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで織田・徳川連合軍の砦として利用された場所です。江戸時代には尾張藩の御殿が建てられました。
蟹清水砦は、織田信長による小牧山への築城(小牧越し)の際には、信長の武将・丹羽長秀の屋敷がおかれたと伝えられる。小牧・長久手の合戦時には、小牧山に陣を敷いた織田信雄・徳川家康連合軍がこの砦を修復し、北外山砦、哥津砦(うたづ)と結んで小牧山右翼の連砦を成して秀吉方の陣地に対抗し、交番で守備した。
砦の規模は東西四十間(約72.5m)、南北六十一間(約110m)と伝えられ、昭和二十年代頃までは堀跡、土塁跡なども残っていた。砦は、江戸時代には小牧御殿の庭園の一角になっていて、清水が湧き、蟹がいたのでしょう、蟹清水と呼ばれていた。その後の開発によって周辺は宅地化され、現在は砦跡を示すものや清水は残っていない。
平成十七年十月 小牧市教育委員会 ※1間=1.81mで換算
蟹清水砦跡の場所
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでの蟹清水砦の位置。小牧山のすぐ東にあり敵である羽柴軍の岩崎山砦やその隣の二重堀砦と対峙する様な場所でした。
地形が分かりやすい
蟹清水砦跡は砦の遺構は残っていませんが、地形が分かりやすいです。東から延びる台地の先端みたいなところにあり、西側に向けて下がっています。今では県道で緩やかな坂になっていますが、周辺の宅地を見ると高低差がハッキリ分かるほどガクッと下がっています。
江戸時代には御殿も建てられた!
蟹清水砦跡の石碑と看板を見て帰るだけではモッタイナイです。道路の向こう側には小牧御殿趾の石碑があります。蟹清水砦の跡地に江戸時代に尾張藩の別荘が建てられたのです。
これはちょっとした穴場的な史跡かも?初代尾張藩主・徳川義直(徳川家康九男)手植えの槇の石碑です。よく見ると小牧町時代のもの。ところでその槇は石碑の後ろでしょうか?
なぜ何度も利用されたのか?
蟹清水砦跡の歴史を見るとこの場所は何度も利用されている事に気が付きます。
・蟹清水砦
・尾張藩の小牧御殿
なぜこの場所は歴史の中で重要視されたのか?これは私の仮説ですが、その理由は地形と場所にあると思います。まず西側から見ると崖の上にある場所で防御面も安心です。そして逆の東にはかつて街道が通っていました。
蟹清水砦跡の200mほど東を稲置街道(いなきかいどう)と上街道(うわかいどう)が通っています。稲置街道は名古屋と犬山を結んだ街道。上街道は名古屋と中山道の伏見宿(現在の岐阜県可児郡御嵩町)を結んだ道です。
途中、楽田(犬山市)で分岐するのですが、小牧には宿場(小牧宿)があり、2つの街道は同じでした。稲木街道も上街道も江戸時代に整備された街道とされていますが、ゼロから作ったのではなく、もとからあった何かの街道を整備したと考えられています。江戸時代以前の戦国時代にもここに街道が通っており、それを押さえるのが蟹清水砦跡だったのでしょう。
私の感想
これはかつて私が講師を務める中日文化センターの城巡り講座で蟹清水砦跡を訪れた時のもの。参加者のからは地形や街道が分かりやすい。そして交通の要所だったのも実感できるという声がありました。
私の感想ですが、蟹清水砦跡は東200mほどにある稲置街道(上街道)とセットで訪れることがオススメです。なぜかというと地形と街道、つまり交通の要所だったことが実感できるからです。所要時間は小牧御殿跡含めて10分ほどなので街道とセットで歩いてみましょう。