織田信長の小牧山城時代の居館はどこ?その場所がここ!

小牧市の小牧山城は織田信長が美濃を攻める時、清洲城から居城を移した城です。その時に織田信長の館も築かれたと考えられていましたが、じつはよくわかっていませんでした。しかし近年の発掘調査で織田信長の居館があったと思われる場所が小牧山のふもとから発見されました。それが曲輪402です。

その根拠は何?

現地案内には次のようなあります。

曲輪402発掘調査の解説

 史跡整備前に行った発掘調査は、かつてここにあった中学校の運動場造成で全体に削平を受けていたため、削平の影響が少ない土塁際や堀の存在が予想される部分に限定して行いました。

 曲輪403a(現在地)と曲輪402を区画する堀は、幅3m、深さ約2mの規模をもっています。堀の形態は断面がV字形の部分と底が平坦な部分があります。

 この堀の南側で土塁の積み土の痕跡を確認し、曲輪402は土塁に取り囲まれていたことを明らかにしました。また昭和2年に作成された小牧山の地形測量図を見ると、堀は曲輪402の北西角まで続かず、北西角付近に出入り口があったと考えられます。曲輪402は、一辺が75cmあり、山麓部分で最大規模の曲輪であることから、小牧山城を築いた織田信長の居館があった可能性があります。

要訳すると、小牧山城のふもとには館群と思われる曲輪跡の区画がたくさん発見されています。その中で唯一、土塁に取り囲まれている区画が曲輪402です。さらに山麓部分で一番大きな曲輪なので、城主だった織田信長が住んでいた居館があったのではないかと指摘されています。

その場所は小牧山城の南側にある区画。すぐ隣に虎口の遺構も復元されています。

これが曲輪402

曲輪402は遊歩道の上から見学すると全体を見る事ができます。堀と土塁は復元されたものですが、曲輪を取り囲んでいた様子がよくわかります。

東から見た図。なぜかこの区画だけ堀と土塁に取り囲まれている、つまり特別な区画(曲輪)だったのでしょう。では城内で特別な曲輪というと…城主だった織田信長が住んでいた館があったのではないか?と推測されています。

私の信長の居館跡の感想ですが、この小牧山ふもとの曲輪は根拠が示され、またわかりやすく解説してあるのでスッと納得できると思いました。ただ、小牧山城は長期的に発掘調査が行われる計画なので、もしかすると小牧山の別の場所から織田信長の城主時代と思われる館跡のn遺構が発見されるかもしれません。今後の調査にも期待できる小牧市の小牧山城です。

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