春日井市勝川町2丁目の龍源山太清寺はこの周辺にある勝川(かちがわ)の地名の由来となった寺院です。
現地案内看板には天正十二年(1584)に起こった小牧長久手合戦と徳川家康のことについて書かれていました。
太清寺の歴史 龍源山太清寺は、その昔『醍醐山龍源寺』といいました。その草創がいつの頃かは不明ですが、山号から推して山城国醍醐寺との深い関わりを持ち、勝川一帯が醍醐寺領の荘園地であったことや、醍醐塚といった古い地名が残されていたことなどから、千年を超える歴史が寺には流れているといってよいでしょう。
天正十二年(1584)四月、徳川家康が小牧山より長久手に軍勢を率いて向かう途中、当地で小し、『勝川(かちがわ)』の名を吉慶と喜び、阿弥陀堂で必勝祈願をして出陣し、勝利を収めました。
承応二年(1653)焼失したままになっていた阿弥陀堂が再建され、灰じんの余木をもって彫刻された阿弥陀如来像が安置されました。 慶安四年(1651)薬師如来のご開帳を村中あげて行い、ここに諸堂併せて復興して寺号を龍源山太清寺と改め、臨済宗妙心寺派の末寺となりました。
明治二十四年(1891)の濃尾大地震で倒壊した薬師堂は大正十年(1921)に再建され、御開帳は三十三年毎に行われています。
本堂および阿弥陀堂は天保八年(1837)の台風で大破しましたが、本堂は嘉永三年(1850)に再建、阿弥陀堂は明治五年(1872)に再建された後、昭和五十四年(1979)に区画整理の移転により現在の十王堂となっております。
天正十二年(1584)四月、徳川家康が小牧山より長久手に軍勢を率いて向かう途中、当地で小し、『勝川(かちがわ)』の名を吉慶と喜び、阿弥陀堂で必勝祈願をして出陣し、勝利を収めました。
承応二年(1653)焼失したままになっていた阿弥陀堂が再建され、灰じんの余木をもって彫刻された阿弥陀如来像が安置されました。 慶安四年(1651)薬師如来のご開帳を村中あげて行い、ここに諸堂併せて復興して寺号を龍源山太清寺と改め、臨済宗妙心寺派の末寺となりました。
明治二十四年(1891)の濃尾大地震で倒壊した薬師堂は大正十年(1921)に再建され、御開帳は三十三年毎に行われています。
本堂および阿弥陀堂は天保八年(1837)の台風で大破しましたが、本堂は嘉永三年(1850)に再建、阿弥陀堂は明治五年(1872)に再建された後、昭和五十四年(1979)に区画整理の移転により現在の十王堂となっております。
徳川家康の命名だった
かつてこの辺は南に流れる庄内川を歩いて渡ることができる浅瀬があったようで、そのことから(徒歩川:かちがわ)と呼ばれていました。
小牧長久手の戦いで徳川軍率いる徳川家康がこの太清寺で休憩した時、徒歩川を勝川と名付けたといわれています。また別の説もあって、太清寺で戦勝祈願して合戦に勝利したことにより名付けられたとも。いずれにせよ徳川家康と小牧長久手の戦いが関わっているのは、変わりません。
境内の南にある十王堂には長久手合戦出陣之地という看板がありました。
そして川
太清寺の南を流れる地蔵川。このすぐ南を庄内川が並行する様に流れています。もしかするとかつては同じだったのかもしれません。私の感想ですが、徳川家康が地名の由来になっている珍しいケースだと思いました。また縁起の良い地名が残されている事例でもあります。