松平軍の本多甚十郎と今川軍の長谷川十郎が槍を合わせて戦った田原市槍合橋

かつて現代の田原市田原町新町にあった槍合橋(やりあいばし)は松平元康(後の徳川家康)と今川軍が戦った古戦場に残る橋です。現地の看板は以下のとおりです。

槍合橋(やりあいばし)
 
昔、この場所には石で作った橋が架けられており、橋の下には水路がありました(現在水路は地下に埋設)。橋の名前は槍合橋といいました。名前の由来について、以下のような話が残されています。
 
永禄七年(1564)、岡崎城主の松平元康(後の徳川家康)は、今川領となっていた東三河を攻略するために兵を進めました。田原城も攻略対象となり、松平勢は現代の加治町に付城(つけじろ:前線基地)を築き、城に押し寄せてきました。
 
このとき、松平方の本多甚十郎と今川方の長谷川十郎が槍を合わせて戦いましたが、地元に残る『田原城主考』という資料によると、それがここ、槍合橋であったとのことです。
 
合戦は登り町、横町、新町、本町など、現在の田原のまちなか一帯で繰り広げられたようです。この攻防戦は翌年まで続きましたが、松平方の攻勢に今川方の田原城代・朝比奈元智(あさひな もととも)は交戦を断念し、城を明け渡して退去しました。 

本多甚十郎

本多広孝の家来。永禄四年(1561)の藤波畷の戦い(西尾市吉良町)では、吉良家の家老・富永伴五郎忠元を討ち取って松平軍の勝利に貢献した。

現地に名残がある

看板が建つ場所をよく見ると水路があり、これがかつての川の名残なのかな?と思います。するとそこに架かっていたのが槍合橋なのでしょう。今では橋は無く、水路も暗渠みたいに地下に埋まっています。

私の感想ですが、松平元康による田原城攻めはローカルな戦国史ではありますが、現地に行くと遺構の名残みたいなものが残っているので、興味深い史跡だと思います。

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