豊橋市牟呂公文町に残る牟呂城址は戦国時代にこの地に勢力を持っていた室金平(むろ かねひら)、または鵜殿兵庫頭政茂(うどの ひょうごのかみ まさしげ)の居城跡です。現地には以下のような案内看板がありました。
牟呂城址
牟呂城は、標高3.5mの台地の緑辺部に立地する城で、南側には柳生川の河口へと続く谷が入り込み、かつては間近まで船で入ることができたと考えられています。城主は室金平(むろ かねひら)、または鵜殿兵庫頭政茂(うどの ひょうごのかみ まさしげ)であったと伝えられますが、はっきりしたことは分かっていません。永正年中(1504~21)に築城され、大永六年(1526)まで存続したと言われています。
牟呂地区の区画整理事業が行われる前まで、周りを巡る土塁がよく残されていました。発掘調査が行われ、土塁の外側を巡る堀が確認されたほか、日常雑器である土師器(はじき)の皿や鍋などが出土しています。土塁の残存状況から、牟呂城は東西・南北とも一辺67mの方形館であったと推測されています。
遺構は現在、ここの土塁しか残されていません。ここから西側が城内で、道路は城の中央に貫く位置にあたります。
牟呂城は、標高3.5mの台地の緑辺部に立地する城で、南側には柳生川の河口へと続く谷が入り込み、かつては間近まで船で入ることができたと考えられています。城主は室金平(むろ かねひら)、または鵜殿兵庫頭政茂(うどの ひょうごのかみ まさしげ)であったと伝えられますが、はっきりしたことは分かっていません。永正年中(1504~21)に築城され、大永六年(1526)まで存続したと言われています。
牟呂地区の区画整理事業が行われる前まで、周りを巡る土塁がよく残されていました。発掘調査が行われ、土塁の外側を巡る堀が確認されたほか、日常雑器である土師器(はじき)の皿や鍋などが出土しています。土塁の残存状況から、牟呂城は東西・南北とも一辺67mの方形館であったと推測されています。
遺構は現在、ここの土塁しか残されていません。ここから西側が城内で、道路は城の中央に貫く位置にあたります。
貫通された城址
現地の説明看板に牟呂城址の位置と遺構の範囲図がありました。これを見るとJT豊橋西支店の駐車場に土塁跡があり、道路が城趾を貫通していることがわかります。方形の館城だったのでしょう。
土塁の前から西側を見るとこんな感じです。ちょうど城址の真ん中を道路が貫通してしまいました。周辺も散策しましたが、堀跡みたいな遺構は残っていませんでした。
土塁の上には社が祀ってあり、入口には鵜殿兵庫之城趾という石碑がありました。鵜殿氏といえば熊野発祥の水軍で、戦国時代には現在の蒲郡市に移り、上ノ郷城をはじめ周辺に一族の城が点在していました。この牟呂城も同じ鵜殿一族の城だったのかもしれません。