真田十勇士のひとり三好青海入道の逸話と甲冑が残る東海市観福寺

愛知県東海市大田町の観福寺は大坂の陣で活躍した真田十勇士のひとりである、三好青海入道のエピソードが残る寺です。

三好青海入道含む真田十勇士は、江戸時代の講談でも人気でなのですが全て史実ではありません。

また真田十勇士も全て実在の人物ではなく、モデルがいたり、架空の人物という指摘があるメンバーもいます。

そんな中、愛知県東海市観福寺に残る三好清海入道の話はいったいどんなものなのか?この記事でチェックしてみましょう。

こんな話

本堂に入ると観福寺と三好青海入道の説明を分かりやすくパネルで説明してくれてます。ざっくり要約すると次のとおりです。

(1) 助左衛門は千人力になりたいと観福寺の本尊に百日祈願

(2) 満願の日に雪が振り本尊が現れ千人力と三十六貫の鉄棒を授かる

(3) 千人力なので歩くだけで地響きが起き村人たちは迷惑

(4) 村人に迷惑かからないように百人力にダウンする様に再び祈願

(5) そして百人力になり束の間の平和

(6) 大坂の陣で池田輝政に仕え三好青海入道と改名し出陣

(7) 百人力を活かし戦場では敵無しの状態で活躍

(8) 晩年、故郷である現在の東海市に帰郷。観福寺に自分の甲冑を奉納

(9) 奉納された兜を頭に乗せると夏病しないと人気が出て和尚さん大忙し

以上

なぜ池田輝政に仕えた?

パネルの下に文章でより詳しい説明があります。ここのポイントはなぜ三好青海入道が池田輝政に仕えたのか?という点。

要約すると観福寺の近くには戦国時代、荒尾氏の木田城があり、池田輝政は荒尾氏の養子になっていた時期があって、ホントならそのまま荒尾氏を継ぐことになっていました。

しかし天正十二年(1584)の長久手合戦で、父・池田恒興と兄・池田元助が討ち死にしてしまい、池田家存続の危機。そこで養子縁組を解消し池田家に戻り、池田輝政として家督を継ぎました。

なので輝政は現在の愛知県東海市に縁があったんですね。

東海市説では、三好青海入道は助左衛門という庶民ですから、もしかすると木田城が治めていた村に住んでいた人物だったのかもしれません。

ちなみに池田輝政は豊橋市の吉田城(続100名城)主の時、関ヶ原合戦に出陣しており、その後、姫路に加増転封され、今に残る姫路城を築きます。

甲冑も残る

また三好青海入道の解説パネルの下には、三好青海入道のものと伝わる甲冑が展示してあります。

中を見てみると…確かに古いものですね。しかし兜の大きさや籠手(こて)の鎖の幅などを見ると、そんなに巨漢でもなかった様に思えます。

私の感想

私の感想ですが、これはこれで興味深いエピソードだと思いました。その理由は三好青海入道は謎が多い人物なので詳細が分かっていないからです。

またこれは私の仮説ですが、池田輝政と共に出陣した百人力の人物は実在したとして、その人物が講談で名高い三好青海入道だと後世の人達が思い込み、観福寺の言い伝えになったのかもしれません。

あなたはこの東海市観福寺に残る三好青海入道の逸話、どう考えますか?

観福寺は観光地ではなく、知多四国八十八箇所の82番の寺院で普通に運営されているので、節度をもって参拝しましょう。

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