桶狭間合戦で敗れた久能城主・久野宗政が建立した東海市加木屋町の熊野神社

東海市加木屋町宮ノ脇にある熊野神社は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦で敗れた駿河・久野山城主だった久野氏が創建したという言い伝えがあります。なぜ今川軍が愛知県東海市に根付いたのか?話は永禄三年(1560)の桶狭間の戦いにさかのぼります。

■熊野神社の場所の住所■

東海市加木屋町宮ノ脇43

>>熊野神社の地図

桶狭間合戦で敗れて…

永禄三年(1560)5月、今川義元率いる今川軍は、2万5千ともいわれる大軍で尾張国に攻め入りました。しかし織田信長の攻撃に遭い、今川義元は討たれ今川軍は敗走。その時、現在の東海市加木屋町に久能山城主だった久野宗政が落ち延びました。

久野宗政は出陣する時、弥陀(みだ)、薬師(やくし)、観音(かんのん)の三像を持って行きましたが、そのうち観音像を氏神の御神体とし、屋敷に祭りました。この屋敷内に祭った氏神が後に屋敷北の森へ移され、加木屋村の氏神として寄進されたのです。それが現在の熊野神社のはじまりと伝わります。

神紋は久野氏ゆらい

神社ですから神紋を決める時、久野家ゆかりの五簡の瓜左みつ巴と呼ばれる、5つの瓜の中に左三つ巴が印されているものと決まり、今日まで四百年以上、熊野神社の社紋として使用されてきました。

p神社の入り口に熊野神社の由来に着いて書かれた石版がありますが、確かにココにも桶狭間の戦いにちなんだ事が書かれています。

熊野神社

當神社の創建については詳らかではないが古記録によれば『永禄三年五月今川の家臣であった久野清兵衛宗政が駿州久能山を出るとき弥陀・薬師・観音の三尊を所持していたが加木屋村に足をとどめた宗政はこの観音を氏神の神体とし當時宗政の家屋の戌亥に當って氏神本社があったが宝永年中この森へ移し奉り御除地に願って熊野之社宮と崇め奉る』と記述されている。

境内に残る樹齢数百年と思われる御神木。いろんな時代を見てきたのですね。

間違いやすい熊野神社

ところで東海市加木屋町には熊野神社がもうひとつあります。名鉄河和線・南加木屋駅近くにある熊野神社です。この熊野神社は江戸時代の建立で、今回紹介した加木屋町宮脇の熊野神社と間違えやすいので注意してください。

私の感想

私の東海市熊野神社の感想ですが、ココにも全国史には知られていない桶狭間合戦の落ち武者伝説があり驚きました。東海市横須賀のほか、大府市にも桶狭間合戦の落ち武者伝説はありますが、子孫が土着した話は貴重ですね。名古屋市緑区や豊明市の桶狭間古戦場とも近いので、セットで巡るのも良いですね。

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