戦国時代の知多半島西部の土豪・花井氏の五輪塔がある知多市瑞雲山大祥院

知多市八幡普ケ脇の瑞雲山大祥院には戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた花井氏の五輪塔と花井播磨守信忠の墓があります。

■大祥院の住所■

知多市八幡普ケ脇21

>>大祥院の場所の地図

花井氏とは

花井氏とは戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた土豪で水軍もあったといわれています。また名古屋市緑区の大高城、大府市の吉川城、知多市の寺本城の城主も花井氏で、同族ではないかと指摘されています。

また天文二十三年(1554)に現在の東浦町で起こった村木砦の戦いでは今川軍に従い、救援に向かう織田軍を街道封鎖で海に迂回させるなど、信長公記にも名前が出てきます。その一族の祖といわれるのが花井播磨守信忠で、大祥院に墓があります。

花井播磨守信忠の墓

墓碑には次のように刻まれています。

花井播磨守信忠公五輪塔

 ここから北西の山の中腹に丸石を積み上げられた五輪の塚があった。桶狭間合戦に負け城は焼かれ一族はちりぢりばらばらに逃げ花井当主は堀之内城下の燃える様をその場所で手をかざし見られたとの言い伝えがある。

 時の流れで塚のまわりには段々畑が出来、近くの畑の人が土手を焼き、桜と松の大木もいつしか燃え一米くらいのくさった木株があった。その後中学校の候補地となり山を切り開くとき土砂の下敷きとなり二名の方が犠牲となられた。塚の場所は現在プールとなったその約三米西の中学校石垣前あたりと記憶する。

 城跡は堀之内中央あたりに小山の丘があった。五輪塔は寺へ持ち込まれ放置されていたので、此の場所に安置する。

平成十年復元 千江子

これを見ると墓は別の場所から移されたようですね。ちなみにこの碑文にある中学校とは大祥院の隣りにある知多市立八幡中学校です。

そして墓碑

墓碑群の中央にある花井播磨守信忠の墓。

まわりにはいくつかの石塔があります。これも花井一族のものでしょうか?

私の感想

私の花井氏の五輪塔がある知多市瑞雲山大祥院の感想ですが、有名な武将ではないのですが郷土史の戦国武将なのでこの様に供養、顕彰されているのは貴重だと思いました。知多半島には花井氏ゆかりの城跡も残っているので、地元の郷土史研究の題材にもなると思います。

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