永禄三年(1560)の桶狭間合戦では、今川義元が討たれた後、今川勢は総崩れとなり、各地に散らばりました。兵士たちは無事に駿河や遠江(現在の静岡県)に逃げ帰った者もいれば、途中で織田軍に討たれて亡くなった者、または合戦後に尾張や三河に住んだ者もいます。
ところで今川義元といえば令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康で、野村萬斎さんが今川義元役ということで発表の段階から話題でした。今回はそんな今川軍の東海市に残る桶狭間合戦の落ち武者伝説について紹介します。
今川義元の墓
東海市立横須賀小学校のすぐ近くに小さな祠(ほこら)があります。ココは今川塚といって、今川義元の墓と伝えられている場所なのです。
■今川塚の場所の住所■
東海市高横須賀町戌亥屋敷47
今川塚に駐車場は有りませんが、名鉄河和線・高横須賀駅から約400mほどのところにあり、徒歩での所要時間は約5分です。
お堂の前には…なんと今川義元と刻まれた石碑がありますね。実はこの地には次の様な話が伝わっています。桶狭間合戦後、義元の遺体を護り、横須賀の村へ逃げてきた今川軍の兵士たちは、永昌寺(えいしょうじ:現在は無い)に義元の遺体を葬りました。そして一部の兵は主君を供養するためにこの地に住み着いたのです。
現在の高横須賀町周辺に『早川』、『北川』の苗字を名乗る人は、その人達の子孫だといわれています。
しかし桶狭間合戦後、この周辺は織田信長の勢力下にあり、堂々と義元の供養をする訳にはいかなかったので、墓も今川義基墳と字を変えて刻まれました。
今川義元の墓のすぐ側に元治元年(1864)九月十九日と刻まれた石碑があります。これには次の様な話が残っています。
常滑(とこなめ:現在セントレアがある常滑市)の今谷要蔵という船頭が、ある日、伊勢湾で難破しそうになりました。
その時、要蔵は日頃から信仰していた今川さんに助けを求めたところ、無事に帰る事ができ、お礼として今川塚周辺の二十一坪の土地を買い上げ、そこに祠を建て、さらに供養料として当時のお金で十両を奉納しました。その時の石碑が今でも残っています。
富木町の十二塚
同じ東海市の富木町に十二塚という地名があります。ここも今川軍の落ち武者伝説が残る場所なのです。当時、この地は姫島村という小さな村がありました。
桶狭間合戦後に十二人の落ち武者が瀕死の状態で逃げてきたのですが、この地で亡くなってしまい、村人たちによって十二人の墓が作られ、そのことが後に地名になったといわれています。現在ではこれらの塚も無く、地名だけが残っています。
私の感想
今川軍の墓は東海市のほかに愛知県の二ヵ所あります。それが次の2つです。
これらの墓があるのに、なぜ東海市にもあるのかというと、私の感想ですがもしかすると義元の意外の一部を葬った墓なのかもしれません。例えば髪の毛(遺髪)や歯など。あと墓を護るために土着した兵がいた話など興味深いですね。
東海市はかつての桶狭間古戦場といわれる名古屋市緑区や豊明市からも近いので、地理的に言うと無理はない場所でもあるので、非常に興味がある落ち武者伝説です。