愛知県東海市富木島町に十二塚という地名があります。ここは永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時の落ち武者伝説が残る地名なのです。ではどんなエピソードなのかをチェックしてみましょう?
永禄三年(1560)5月、今川義元は2万5千ともいわれる大軍で尾張国に侵入します。
しかし桶狭間で織田信長から攻撃を受け、大将の今川義元は討ち死。残兵も故郷の駿河・遠江(共に現在の静岡県)に向かって敗走しましたが、もちろん織田軍の追撃も激しかったのです。そこで追撃を振り切るあまり、知多半島側に逃げ込んだ12人兵士たちがいました。
兵士達は皆負傷しており、動けないところを村人達が発見します。
村人たちは地元の有力者に相談に行きましたが、今川軍だと分かると助ける事を戸惑います。なぜかというと、桶狭間合戦で織田軍が勝利したことは風の速さで広まり、もし負けた側の残兵を助けたと知られれば、織田家からどんな仕打ちがあるかわかりません。村人達はただ見守るだけでした。
その後、兵たちはひとり、またひとりと息を引き取り、12人全員が亡くなってしまいます。
亡くなれば皆、仏。村人たちは12人の亡骸を手厚く埋葬し、12基の墓ができました。その場所が現在の東海市富木島町十二塚です。
現地の様子。東海市富木島町十二塚のほとんどは畑と藪になっており、言い伝えの12基の墓は残っていませんでした。
私の感想ですが、史跡巡りをしていると、かつてその土地の出来事が地名になるというのはよくあるケースなので、この逸話も本当ではないかと思います。
また富木島町十二塚と同じく東海市には今川軍の敗残兵が土着した村や建立した神社が残されており、隣の大府市にも桶狭間合戦の落ち武者の話しが残ります。
今では塚は有りませんが、この富木島町十二塚も織田と今川が戦った桶狭間合戦ゆかりの場所なのです。