愛知県岡崎市の岡崎城は松平元康(徳川家康)が生まれた場所として有名ですが、では岡崎城のどこで生まれたのか?その具体的な場所については、あまり知られていません。では岡崎の郷土史に伝わる徳川家康生誕地の場所をお伝えします。
その場所が坂谷邸
【岡崎市史 徳川家康と其周辺 上巻 別巻1】(1972:岡崎市役所)に柴田顕正による徳川家康生誕場所について次のような記載があります。
坂谷邸というのは、徳川家康の産湯井戸があるすぐ隣。「岡崎古記」によるとこの坂谷邸は女中たちが置かれた屋敷で、歴史家の市橋章男氏の著書・天下人の実像で、『産み月を迎えた於大は二の丸の御殿から移ったのだろう』と指摘しています。
坂谷邸阯の石碑です。私の仮説ですが、徳川家康の産湯井戸(東照公産湯井)はもとは坂谷邸の生活井戸だったのではないかと思います。その根拠は坂谷邸のすぐそばにあるからです。臨月の於大が坂谷邸に入り、そこで出産することになり、生活井戸から家康の産湯を取った。それが後に東照公産湯井になったと思います。
なぜ他にも産湯井戸があるのか?
松平家発祥の地である豊田市松平郷にも徳川家康の産湯をとった井戸があります。どっちが本物?と思うかもしれませんが、私の感想はセレモニー的に松平郷の水を岡崎城に竹筒かなにかに入れて持っていったと思います。
その理由は家康(竹千代)は松平家の嫡男なので、一族発祥の地から儀式的に水を持ってきて産湯に混ぜて使ったのではないかと思います。またこれとは別に家康の産土神である岡崎の六所神社からも産湯の水が提供されたともいわれています。
産湯の未だに現役
坂谷邸のすぐそばにある東照公産湯井(徳川家康の産湯井戸)。今では大きな石組みになっており石碑も建っている立派なものですが、かつては坂谷邸の生活井戸だったのでしょう。さて、この東照公産湯井(徳川家康の産湯井戸)は岡崎市の観光パンフにも載っていますが、今でも水脈は生きており、ちゃんとした井戸なのです。
その証拠がこちら。東照公産湯井(徳川家康の産湯井戸)から汲み上げた水を浄化設備を通して触れられるようにしてあります。つまり未だに水が湧いているんです。でも飲むことはできません。この汲み上げた水場は井戸のすぐ側にあるのでこれもチェックしてみてください。
他にもいた兄弟姉妹
徳川家康は一人っ子と思われがちですが、同じ父母の弟と妹がいました。家康の父親である松平広忠の子について、徳川実紀に以下のように記述があります。
長女は多劫姫(たけひめ)と申し、桜井の松平与一郎忠政に嫁し、忠政の死後、その弟与一郎忠吉に嫁し、そののちまた保科弾正忠光に降嫁した。
その次(次女)は市場殿といって、荒川甲斐守頼持(また義虎)に嫁し、後に筒井紀伊守政行に嫁がれた。
その次(三女)は矢田姫と申し、長沢の松平源七郎康忠に嫁がれた。
広忠はこののち、田原城主戸田弾正少弼康光の娘、真喜姫を迎えなさったが、この娘には子ができなかった。福釜松平甚三郎信乗の子兵庫頭親良も、桑谷の右京大夫忠政も、内藤豊前守信成も、実はこの広忠の子であるとも伝えられる。
現代語訳 徳川実紀 (吉川弘文館より)
これは徳川実紀に記載がある徳川家康の弟、妹ですがもうふたり兄弟がいたことが分かっています。それが松平忠政と広忠寺の住職・恵最(えさい)です。少し混乱するので松平広忠の子どもたちをざっくりとしてまとめます。
・松平忠政(桑谷の右京大夫)
・松平元康(家康)
・穎新(えいしん)
【女】
・多劫姫(たけひめ)
・市場殿
・矢田姫
徳川家康は生後5日で2歳になっていた
明治時代に新暦が入ってくる以前、つまり戦国時代や江戸時代は、現在と年齢のカウント方法が違います。ざっくり説明すると以下の通りです。
・妊娠中が0歳
・生まれた時点で1歳
・正月(元旦)を向かえると1歳プラスされる
これでいくと、12月26日に生まれた徳川家康は、その時点で1歳です。そして生後5日後の1月1日には2歳になっています。
でも現在のカウントでいくと、誕生日を迎えていないので0歳ですよね。これが理由で戦国時代と現代では年齢の数え方に最大2歳のズレが生じる場合があります。徳川家康みたいに日にちが分かっている人のほうが少ないので、その他の武将の享年は2歳ズレている可能性があるかもしれません。
私の感想
今回は徳川家康は岡崎のどこで生まれた?という具体的な場所をはじめ、家康が誕生した時のトリビアを掘り下げてみました。松平家の嫡男として生まれた竹千代くんでしたが、これからはあなたもご存知の苦難の道が待ち受けておりました。