東条城(とうじょうじょう)は、愛知県西尾市吉良町駮馬(まだらめ)字城山にあった、東条吉良氏・東条松平氏の居城です。一説によると承久の乱で戦功があった足利義氏が吉良荘を領した時に築き、三男・吉良義継が城主となりました。
戦国時代になると岡崎城を追われた松平広忠(家康の父)が一時期かくまわれていた事もあり、松平氏を保護しましたが元康(家康)に一度滅ぼされました。その後存続を許され、江戸時代には幕府の儀式を司る高家となります。現在では城址公園として整備されていますが、かつての遺構を良く残し、またちょっとした桜の名所として知られています。
もっと詳しい東条城の歴史 ⇒ 東条城 | Wikipedia
■東条城の住所■
愛知県西尾市吉良町駮馬(まだらめ)字城山
かつての城下町跡
東条城のふもとに高札(領主からのおしらせ)が建てられた札辻跡という場所があります。この周辺に東条城の城下町がありました。
現地案内看板にある永禄六年(1563)の参州東条古城図(川越市光西寺蔵)を見てみると、東条城の北西に十字路があり、建物が密集していますよね。これが札辻跡です。
そして現代の住宅地図。よく見ると城下町の名残が残っています。県道318号線がかつての街道で、東条城の北西に住宅が密集していますね。また住宅地図にある良興寺、宝光院は参州東条古城図にも記載されています。
帯曲輪跡
では東条城に登ってみましょう。まずは帯曲輪(おびくるわ)があります。帯曲輪とは、城の側面を守る着物の帯みたいに長細い曲輪の事で、腰曲輪と呼ばれます。この帯曲輪は、かつて松平元康(徳川家康)と東条吉良氏が戦った藤波畷(ふじなみなわて)古戦場方面、つまり西側を向いており、東条城に攻め寄せる松平軍をここで迎え撃ったのかもしれません。
帯曲輪にある横矢掛けの遺構。帯曲輪に攻める敵を側面から攻撃できる場所です。
三ノ丸
帯曲輪の上には三ノ丸がありました。人工的な削平地になっています。この写真は本丸から撮ったもので、桜の木の向こう側は藤波畷古戦場で平地が広がっています。攻め寄せてくる松平軍をここから監視していたのでしょう。
三ノ丸にある土塁。当時のものかもしれませんね。
二ノ丸
二ノ丸は三ノ丸と向かい合って本丸を守っていた曲輪で、現在は八幡社になっています。境内の隅をよく見ると、ここにも土塁が残っています。
本丸
そして本丸。東条城の一番重要な場所です。吉良義昭もここで指揮をとっていたのでしょう。入口の大手門には虎口(こぐち)が再現されています。虎口とは城の出入り口の事で、攻めにくく守りやすい構造になっているのが基本です。
東条城の虎口も二の丸、三ノ丸から進んだ場合、まっすぐ大手門にたどり着けず、ワザと曲がって進む構造になっています。なぜかというと、そうすることによって、城門を攻めている敵を横から攻撃できるからです。
大手門を突破すると、物見櫓と城門、そして柵が再現されています。物見櫓と城門は、足助城みたいに中に入る事はできませんが、当時あったであろう建物を再現しているという事で、かなり良い雰囲気ですね。
本丸の様子。平地が広がっていますが、かつては建物があったのでしょう。
隅櫓趾。広島県中央図書館蔵の古図に東条城のものがあるのですが、そこには本丸東北隅に口の形で特記された箇所があります。現地でそこをよく見ると、土を盛り上げた遺構が残っており、この事からこの場所に隅櫓が建っていたのではと推測されています。ちなみにこの隅櫓趾の下は旧駐車場の場所で、かなりの崖になっており、もし崖を登って東条城を攻めようとしても、この隅櫓から攻撃される訳です。
東条城の搦手(からめて)門跡。大手門が表の門で、搦手とは裏口の事です。ここにも虎口があり、折れ曲がって城内に入る様になっていますが、現在では出入りすることはできません。
東条城の石碑。東條城址と記載されています。陸軍大将男爵土居光春書とあります。
私の感想
東条城の見どころポイントをチェックしてみましたがいかがでしょうか?愛知県には2000近くの城跡として研究されているものがありますが、そんな中でも歴史が深く、整備され、見どころも多い東条城。お城ファンには是非、チェックしてほしい城のひとつだと思います。
私の感想ですが東条城に行く時は、近くの史跡もセットにしやすいと思います。例えば江戸時代の領主・吉良上野介義央の善政を偲ぶ黄金堤や戦国時代以前からの西尾城、小笠原水軍の寺部城など、見ごたえがある城や史跡が点在していますので、まとめて巡るのもおすすめです。