三河に残る小笠原水軍の城 | 西尾市幡豆町の寺部城址

愛知県西尾市幡豆町にある寺部城址は、徳川家家臣の小笠原氏の居城跡です。

寺部城の築城者と築かれた時期はよく分かっていませんが、永正十一年(1514)に小笠原定政が早川三郎を倒して寺部城主になったと記録が残っています。それ以後、小笠原氏の居城となりました。

永禄三年(1560)の桶狭間合戦直後、小笠原氏は松平元康(後の徳川家康)と戦い、勝利したという逸話があります。これが走り付けの戦いという合戦で、幡豆町には民話として残っています。

>>走り付けの戦いについて

一度は松平氏に勝利した小笠原氏ですが、後に本多忠勝の薦めがあり、松平氏に従う事になります。

その後、松平氏は徳川氏と改名し、小笠原氏も各地を転戦。家康と共に関東に移り寺部城も廃城になりますが、現在でも寺部城址には、戦国時代の遺構が色濃く残っており、私の大好きな城のひとつです。

この記事では、そんな寺部城のポイントを紹介します。

寺部城の場所

西尾市寺部町堂前89−2

寺部城の地図

堀?それとも谷?

現在の寺部城の入口を登ると、かつての堀址に出ます。本丸と曲輪の間を走る堀で、正直、谷と言ってもよいくらいです。

この堀を進んでいくと、周りこんで本丸に登る事ができます。

本丸でチェックする土塁と景色

そして本丸、城の中心部ですね。現在は公園として整備され、ベンチやテーブルのほか、祠(ほこら)が祀ってあります。

この本丸でチェックしておきたいポイントが2つあるのです。まずひとつ目が土塁です。

本丸の隅に土塁があるのですが、現地案内看板をよく見てみると、浅野文庫蔵諸国古城之図にも記載されている土塁なのです。そして諸国古城之図には、

『此土イ高ク他ノ山ヨリ城内見エズ』

という記載があります。【土イ】(土居)とは土塁の事で、土塁が高いために他の山から城内を見る事ができないという意味なんですね。

現在ではそんなに高い土塁でもないのですが、廃城になって400年以上経っているのにも関わらず、これだけ残っているのはスゴイです。

ちなみに土塁の上の柵は、現代に復元されたものです。

そしてもうひとつ本丸からチェックしておきたいのが南側の景色です。海が広がっていますね。

現地案内看板を見てみると、寺部城は三河湾に面している事がよくわかります。

また小笠原氏は水軍を持っていたので、水軍の調練(訓練)なども三河湾で行っていたのでしょう。

そしてここでのチェックポイントですが、海の手前に現在の民家が広がっていますよね?この場所は江戸時代、もしくはそれ以前から人が住んでいた、つまり寺部城の城下町の可能性があるのではと私は思います。

なぜかというと、現地の浅野文庫蔵諸国古城之図に民家アリと記載されているからです。建物の様子などは記載されていませんが、浅野文庫蔵諸国古城之図は江戸時代のものなので、江戸時代には民家があったという事がわかりますね。

もしかするとそれ以前の寺部城が現役だった時代にも民家がたくさんあり、港や家臣団の屋敷など城下町があったのでは…なんて思ったりもします。

そう思って景色を見てみると、現在の住宅地がかつての城下町で、その先に港があり、海には商船や水軍の船が往来していた…

なんて妄想に浸ることもできますね(笑)。

まあ、あくまで私の想像ですが、小笠原氏はこの本丸から、どの様な景色を眺めていたのでしょうか。

当主の館跡

現地の浅野文庫蔵諸国古城之図を見てみると、南側にヤシキという記載があります。これは寺部城主が生活していた屋敷、つまり館があったと思われる場所です。

現代の私たちは、戦国時代の城主は基本的に城内で生活していたと思いがちです。

しかしそんな事はなく、普段はふもとの屋敷で生活し、戦などの有事や儀式の時は城に入るというものでした。

織田信長は安土城の天主(天守)で生活していたともいわれていますが、それ以前の岐阜城時代は、やはり山のふもとの屋敷で生活していました。

ところでそんな寺部城主の屋敷跡ですが、現在では畑になっており、遺構なども残っていません。

しかしここにはかつてどの様な建物があったのだろう?なんて想像も楽しいですね。

近くの城もチェック!

そして案内看板には、近くの城も記載されています。これは小笠原一族の欠城(かけじょう)と寺部城の位置関係です。

こんな感じで、現在の西尾市幡豆町には、小笠原氏時代の城跡がいくつか残っています。

また戦国時代や城に関連する、馬場、市場、貝吹、浜屋敷などの地名が残っています。

こういったものは、城郭研究というより郷土史に分類されますが、調べれば調べるほど面白いですね。

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