豊川市佐脇城址は奥平氏の与力となり長篠合戦で討ち死にした佐脇氏の居城跡

豊川市御津町下佐脇の佐脇城主はこの地の土豪だった佐脇氏の居城跡です。下佐脇ちびっ子広場に石碑と看板があります。

>>佐脇城址の地図

佐脇城跡

佐脇氏は鎌倉期にここ佐脇を名字の地とする地頭であったと思われ、南北朝期以後は国人領主となり、室町期には幕府奉公衆となった。『太平記』に佐脇左近太夫(巻二四)、佐脇三河守(巻第三五)、佐脇右京亮明秀(巻第四〇)の名が見えており、将軍の近習や仁木氏被官を務める佐脇氏があった。しかし二番奉公衆に編成された佐脇氏は、早くその基盤を伊勢地方の所領にしたらしく、かわって額田郡生田出身という国人生田氏が佐脇の領主となった。
 
『完成重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)の奥平貞久譜には、生田氏が奥平家臣となったとあり、したがって貞久(1475年没)の代に作手の奥平氏が佐脇を領することになったと思われる。
 
その後、奥平氏の領有が続いたと考えられるが、松平元康が独立し東三河進出を企てると、吉田・牛久保を守備する前線基地として永禄五年(1562)頃に今川方の砦がここに築かれた。この時、八幡(豊川市)にも砦が作られたが、岡崎方面から内陸の東海道を通って御油に出てくる敵には八幡砦が、沿岸の平坂道を西郡から向かってくる敵には佐脇砦が効力を発揮するように配置されたのだろう。そして八幡には板倉弾正重定が、佐脇には三浦左馬助義就が武将として置かれたという。砦は同年松平方に落ち、一向一揆に家康が手を焼いている時期に今川方が奪還し、永禄七年(1564)に再び家康が陥落させたと考えられる。
 
松平方の佐脇刀祢太夫(さわき とねだゆう)は最後の城主で、奥平氏に従い長篠の戦いに加わり戦死し、その後城は廃城となったと伝えられている。江戸時代以来の宅地化で城跡の面影が失われたが、周辺をめぐる水路に城跡の名残を留めている。

下佐脇区

城は北側

愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河の地籍図を参考に作った佐脇城の範囲。これを見ると看板と石碑がある下佐脇ちびっこ広場の北側の住宅地が、かつての佐脇城だったみたいです。

堀跡の水路

佐脇城址と考えられる住宅地の北側を流れる水路は、堀の名残といわれています。

城主の墓

佐脇城址から東南に約500m離れた場所に最後の佐脇城主だった佐脇刀祢太夫の墓といわれる五輪塔があります。

>>佐脇刀祢太夫の墓の地図

佐脇刀祢太夫(さわき とねだゆう)の墓 昭和五十五年九月一日指定

佐脇城最後の城主の墓である。三河国二葉松によれば『佐脇刀祢太夫塚あり。藤八郎衛と号す。長篠役において討死す。奥平九八郎が与力なり、当代大番組佐脇四郎左衛門が祖なり』とある。また、この五輪石は沈重すべきものとのことである。

豊川市教育委員会

所要時間と私の感想

佐脇城址の所要時間は約10分ほどでした。看板読んで堀と周辺を歩くくらいです。私の感想ですが、有名ではない城ですが石碑と看板、そして堀跡と城主の墓が残っていたので楽しめました。佐脇氏は太平記や東三河の郷土史にたびたび出てくる土豪なので、長篠設楽原合戦とともにいろんな戦いやエピソードと繋がる興味ふかい一族だと思いました。

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