小牧市堀の内5丁目にある堀の内公園は、織田信長が築いた小牧山城の城下町の遺構が出土した場所です。
ここは永禄六年(1563)、織田信長が小牧山に新たに城を築き、清須から居城を移した際に、山の南側に建設した城下町の中に位置します。城下町は、東西、南北に街路を配置して計画的に築かれ、このあたりは、商工業者が集住した区域でした。
小牧堀の内土地区画整理事業が行われた範囲は、紺屋町、鍛冶屋町、新町にあたると推測されています。 区画整理前に実施した上御園遺跡の発掘調査では、街路跡、堀立柱建物跡、溝跡、井戸跡などの遺構とともに、瀬戸美濃産の陶器(天目茶碗、皿、すり鉢等)素焼きの土器(鍋、釜、皿他)、鍛冶関連品(坩堝:るつぼ、羽口他)など遺物が出土しました。確認した遺構の分布状況から、街路沿いに建物が建ち、街路から30m~35mまでは生活空間で井戸などがあり、さらにその奥には畑や庭であったという町の様子が明らかになりました。
信長は永禄十年(1567)には岐阜へ移りましたが、調査を実施した範囲は、江戸時代初め頃まで町が存続していた部分があったことがわかりました。
平成二十年 二月 小牧市教育委員会
信長の城下町
現地案内看板を見ると小牧山城の城下町は城の南にありました。いくつかの町に分かれており、武家屋敷や寺町を想わせる寺院が集中した場所もありました。また現在の木津用水(こっつようすい)は当時の堀と推測されています。
所要時間と私の感想
上御園遺跡は現在、堀の内公園になっており、城下町の遺構は区画整理の時に無くなりました。他にも残っていません。所要時間は看板読んで写真撮るくらいだったので5分ほど。
私の感想ですが、遺構は無くとも現地案内看板で信長時代の城下町の場所を偲ぶことができました。あと気になったのが看板に書いてある、信長は永禄十年(1567)には岐阜へ移りましたが、調査を実施した範囲は、江戸時代初め頃まで町が存続していた部分があったことがわかりました。というフレーズ。
小牧山城廃城後もなんらかの町があったみたいです。後の清洲越しみたいに徹底した移転ではなかったみたいで、信長はそこまで町移転を強制しなかったということでしょうか。