愛知県長久手市は大東建託株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:小林克満)が行った街の住みここちランキング2022で1位になった人気の街です。名古屋市に隣接しイオンモール長久手、またアピタ長久手店をはじめいろんなお店があるほか、いつも予約でいっぱいのジブリパークなどもあります。
そんなオシャレな長久手市ですが、戦国時代は街全体で戦いが繰り広げられ、多数の戦死者も出ました。だから長久手市には首塚、耳塚など戦死者を供養するための塚が残されているのです。
最近長久手市に引っ越してきた人の中には、『こんなオシャレな街がそんなワケないだろ~』と信じられないかもしれませんが、教科書にも出る小牧長久手の戦いの舞台なのです。今回はその首塚、耳塚の場所と現状をリポートします。
首塚
まず首塚ですが、長久手市岩作元門にあります。県道から1本入った道添いにあるのでわかりにくいと思いますが、現在でも残っているのです。
天正12年(1584)4月9日、長久手合戦の舞台となった長久手の村々は、野といわず山といわず戦死者の山となりました。この惨状を目のあたりにし、心を痛めた岩作安昌寺の雲山和尚は、村人たちとともに屍を集めて埋葬し塚を築いて供養しました。 毎年、合戦の日には首塚に香華が手向けられ、村人らによって法要が営まれますがこの法要には遠く名古屋から、尾張藩士らの参詣もありました。
長久手町教育委員会文章
これを見ると長久手市全体で合戦が繰り広げられたのがわかります。
耳塚
耳塚は長久手市立長久手小学校の西側、尾三消防本部 長久手消防署の南側の田んぼの中にあります。
長久手合戦は天正12年(1584)4月9日の午前9時半頃から徳川家康・織田信雄の両軍と羽柴(後の豊臣)秀吉方の池田勝入(しょうにゅう)・森長可の両軍により、現在の仏ヶ根付近で3時間余りに繰り広げられた戦いである。
徳川軍に押すに押されて、池田・森軍は最終的に現在の長久手小学校付近の中島、溝添、中縄手まで敗走した。池田・森軍が最期を迎えた場所である長久手小学校の裏手当たりに東西数百メートル余りの地に、合戦で戦死者を埋葬した小高い丘が作られた。 この塚が後に草塚となり、『尾張名所図会』には「百八塚」として、岩作神社の南側に多くの塚が有ったと書かれている。
合戦にあたり、徳川家康が戦いに勝利した際には、敵方の片耳をそぎ取り、持参させて、後日勲功の証とせよと指示した。そのそぎ取られた討死者の耳を埋めて供養した塚が耳塚であるとの言い伝えがある。 いつしか耳塚に参拝すれば、耳の病が平癒すると言われるようになり、多くの方々が参拝するようになった。
昭和3年12月、当時の岩作区長や地域の有志者により改修され、現在の原型となった。しかし長年の風雨等により倒壊の危険が生じた為に、平成25年3月に再び改修工事を行った。 現在も地域の住民により4月3日に供養祭を執り行い、守り続けている。
令和元年11月
現地案内看板を見ると、現在の長久手市立長久手小学校付近が決戦場だった様に思います。看板に書いてある中島、溝添、中縄手の地名も残っています。
耳塚は改修されましたが、現在でもハッキリ分かる文字で耳塚と書かれています。
もうひとつの耳塚
実は近くにもうひとつの耳塚もあります。こちらは碑だけで台座(つまり中身)が無いので、どこからか碑だけが移転されたものでしょうか?
なぜこんなに塚がある?
今回は首塚1つ、耳塚2つを紹介しましたが、この辺りは江戸時代に岩作百八塚(やざこ ひゃくはちづか)というたくさんの小さな塚がありました。でも今はもう数えるくらいしか残っておらず、塚や中身などは不明です。全て長久手合戦に関連したの塚ではないかもしれませんが、多数の戦死者が出ているのでゆかりの塚もあったと思います。
以前、これらの首塚や耳塚を愛知の歴史歩きの会で訪れたことがありました。その時の参加者の意見として次のようなものがあったのが印象的です。
『長久手には何度も来たことがあるが知らなかった』
『車で来れない場所なので分かりづらい』
『貴重な歴史史跡なのでこれからも残してほしい』
など。
私の感想
私の長久手市の首塚、耳塚の感想ですが、現在でも残る長久手合戦の生々しい史跡だと思いました。古戦場公園には資料館もあるので、その周辺とばかり思いがちですが、かつては長久手市の街全体で戦闘があったというのが実感できました。