織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の2年後、天正十二年(1584)年、徳川家康と羽柴秀吉が尾張で戦いました。それが小牧長久手(こまきながくて)合戦です。
両軍、膠着状態となり、羽柴軍の池田恒興が徳川家康領の岡崎を奇襲するために、別働隊として出陣したのですが、家康に感知され現在の長久手市で合戦が起こります。それが長久手合戦。
池田恒興率いる羽柴軍:9000人
徳川家康率いる徳川軍:9300人
約1万8千人が現在の長久手市辺りで戦いました。※人数については諸説あり
結果から言うと徳川軍の勝利で羽柴軍の池田恒興、元助親子は現在の長久手古戦場公園辺りで亡くなりました。ちなみにこの2人は、のちに姫路城(国宝)を築く池田輝政の父と兄です。
では2人が亡くなったといわれている場所をチェックしてみましょう。
池田恒興討死の場所(勝入塚)
池田輝政の父・恒興が亡くなったと考えられる場所に建つ勝入塚。墓と書きましたが、ここに遺体が埋まっているワケではなく、供養塔みたいなものですね。
池田元助討死の場所(庄九郎塚)
池田輝政の兄・元助の墓も古戦場公園にあります。遺体は無いので実際には供養塔ですね。元助の享年は一般には26とされますが、弟・輝政と年齢が近かったという指摘もあり、一説では二十代前半で亡くなったのではないかともいわれています。
私の感想
私の感想ですが、長久手古戦場公園周辺は住宅地として都市化が進んでいますが、公園内には森も残っていて、かつての様子を想わせます。まるで別世界ですね。今回紹介した2つの塚は、墓という訳ではありませんが、池田輝政の父兄ということで、戦国史では有名人物。周辺に残る長久手古戦場の史跡とセットで訪れてみましょう。