尾張旭市の本地ヶ原神社周辺は、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦の時、三好(羽柴)秀次が本陣を置き、徳川隊の奇襲を受けたといわれる白山林古戦場です。
■白山林古戦場跡の場所の住所■
尾張旭市南新町中畑237
現地看板
白山林の合戦は、天正十二年(1584)四月九日の早暁、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が共に天下統一を狙い戦いました。豊臣方総大将・三好秀次孫七は大軍を率い白山林で食事中、家康と織田信雄の連合軍に急襲されて総崩れとなり、一説では数百人が討ち死にし秀次は配下の馬で逃げたといわれています。
戦場は『白山神社』(本地ヶ原神社の前身)の言い伝えの記述から、現在の緑町、長坂町、南北本地ヶ原、山の上町一帯と推定され、小高い丘、松林のある処といわれています。兜神社はこれら武将を祀ると共に『小牧・長久手の戦い』の歴史上の史跡となっています。
この様な内容
天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦では、織田・徳川連合軍と羽柴軍が対峙して膠着状態が続きました。そこで羽柴軍の池田恒興が『家康の岡崎城を攻めれば、徳川軍は小牧山から動く』と考え、別動隊を組織して岡崎に向かいました。
しかし途中にあった岩崎城を攻めてしまい、休憩していたところを徳川軍に奇襲されてしまいます。まず最初の標的になったのが、大将の三好秀次隊。先鋒の池田恒興が岩崎城周辺の六坊山で休憩を取っていた時、後方の三好秀次は白山林(はくさんばやし)という場所にいました。現在の尾張旭市北本地ヶ原町周辺です。
※白山林の読みは はくさんばやし
尾張旭市南新町中畑237の本地ヶ原神社に、白山林の戦いについて看板があります。また境内には本地ヶ原神社の由緒が書いてある石碑もありました。これによれば本地ヶ原神社の創建は神亀(じんき)年間(724年~29)、または宝亀年間(770年~781)とされるので、小牧長久手合戦が起こった天正十二年(1584)にはすでにあったという事になります。
神社の前には白山道という旧街道が通っています。また近くには北本地ヶ原1丁目の地名を示す看板がありました。
私の感想ですが、かつての白山林があった場所は、開発によって景色が変わってしまいましたが、神社に看板を置いてくれているので、戦国時代を偲ぶことができると思います。ちなみにこの白山林で徳川隊から攻撃を受けた三好秀次は徒歩で逃げだし、木下勘解由(かげゆ)兄弟の支援を受けて、馬で長久手を離脱します。その木下勘解由兄弟が討死した場所が、長久手市の木下勘解由塚です。