長久手市にある勘解由(かげゆ)塚は、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦で、三好(羽柴)秀次を守った木下利匡,祐久兄弟が討死したといわれる場所です。
■勘解由塚の場所の住所■
長久手市荒田1−2
※勘解由の読みは かげゆ
※利匡の読みは としただ
※祐久の読みは すけひさ
討ち死にした理由とは
徳川家康の岡崎城を奇襲するために、池田恒興、森長可、堀秀政、三好秀次ら1万7千(※異説アリ)の羽柴軍別動隊は、岩崎城を落とし休憩していました。別動隊の大将・三好秀次は、白山林(はくさんばやし:尾張旭市)で休憩していたのですが、そこに家康が奇襲をかけ、まず大将だった三好秀次隊が壊滅します。
秀次は徒歩で現在の長久手市荒田まで逃げ延びると、家臣の木下利匡,祐久兄弟に出会います。利匡は自分の馬を秀次に与えて秀次を逃し、自分はこの地に留まって、追撃する敵を食い止めます。
祐久も共に追撃してくる徳川軍と戦いましたが、2人とも力尽きて撃たれてしまいます。その木下兄弟の戦死した場所を示すのが勘解由塚です。
現地説明板
現地には経緯をまとめた説明板があります。
木下勘解由利匡(としただ)の戦士地です。
秀吉方の岡崎侵攻の総大将・三好信吉(のぶよし:後の豊臣秀次)は、白山林(尾張旭市)の戦いで敗北し、ここ(長湫字荒田)まで徒歩で逃げて来て、木下勘解由利匡と出会いました。利匡は自分の馬を信吉に与えて逃れさせ、御幣(ごへい)を地に建てて追ってきた敵と奮戦し、戦死しました。また、兄弟の木下助左衛門祐久(すけひさ)も敵を一時食い止め、この付近で戦士しました。後世、ここを勘解由塚、御幣塚、上様塚などと称しています。
長久手市教育委員会
周辺は面影なし…
勘解由塚周辺の様子。2005年の愛・地球博前後から、長久手市は急速な開発が進み、かつては静かだった勘解由塚周辺にもマンションが立ち並んでいます。
私の感想ですが、木下勘解由塚は小牧長久手合戦の郷土史レベルの事実を伝えてくれる場所だと思います。なぜかというと、小牧長久手合戦は、全国で知られている合戦ですが、三好秀次が敗走するシーンなど、大河ドラマ等でもあまりピックアップされないからです。
現在は塚と長久手市の看板がマンションの前にひっそりと建っているだけですが、ここも長久手合戦時の激戦地だったのでしょう。