長久手市の長久手城址は天正十二年(1584)に起こった小牧・長久手合戦の時、岩崎城に籠城して亡くなった加藤忠景の居城跡です。
■長久手城の住所
長久手市城屋敷2408
加藤忠景は戦国時代、この地に勢力を持っていた豪族で、妻は岩崎城主・丹羽氏次の姉。つまり岩崎城主・丹羽氏次は義理の弟ということです。勢力は丹羽氏のほうが大きかったのか、小牧・長久手合戦では小牧山に出陣していた氏次に代わり、氏重(氏次の弟)と共に岩崎城を守りました。しかし池田恒興らに攻められ岩崎城は落城し、忠景も討死。城主を失った長久手城はその後、廃城になったようです。
近くにある城屋敷の地名。長久手城が由来になってます。
長久手城の現状は地蔵堂と空き地。その隅に加藤忠景の居城だった事を偲ばせる石碑があります。
長久手城趾
長久手城は、中世末期、長久手村を領有した加藤太郎右衛門忠景(1543~84)の居城です。忠景は、16世紀の中頃、前領主斎藤氏の古城を修築して入城しその後、近隣の地侍らと親交を深め、姻戚を結びました。天正12(1584)年小牧・長久手の戦いの時には、家康に従った義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって奮戦しましたが、池田隊の多勢に敗れ、城兵230余名とともに戦死しました。
城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文6(1809)年忠景の子孫の尾張藩士が当地を訪れ、宅跡の観音堂脇に石標を建て、供養しました。
長久手市教育委員会
長久手合戦で亡くなった人達を供養するために建立された地蔵。古いものではありません。隣に地蔵建立の理由が書かれた石版もあります。
天正十二年四月九日 長久手合戦において、この地が激戦地となり多くの戦死者、処刑者を出したと聞き伝えられております。
現在、「池田勝入・森武蔵守・紀伊守・加藤太郎右ェ門」は長湫区会の手によって毎年四月九日に供養祭がなされております。 他の多くの戦死者、処刑者はその例の祭ってあるところもなく、又、地形も整理事業によって昔の面影もなくなりました。
よって、この地に伝わる過去の因縁による霊を慰めるため、長久手城址に「地蔵さま」を建立して、その霊を慰めるとともに併せて地元の危を払い安全祈願をしたいと思いたち心ある有志の皆様方の御賛同を得て寄進により建立する
高低差もチェック!
長久手城址は地蔵堂から入ると平地の平城っぽく見えますが、南西に回ってみると住宅地自体が高台になることが分かります。今では車も問題なく走れるくらいなだらかになっていますが、これが崖と思うと崖の上の城というのを実感できます。
私の感想
私の感想ですが、長久手城址は城の遺構は残っていないものの、石碑や案内板(石版)もあるので城址という事を確認できます。また近くには血の池公園や少し歩けば古戦場公園などもあるので、セットで訪れるのが良いです。