愛知県丹羽郡大口町の堀尾屋敷跡は、島根県松江市にある松江城を築いた堀尾吉晴の生誕地といわれる場所です。別名・御供所城(ごくしょじょう)跡という城址でもあります。
松江城は堀尾吉晴の息子・堀尾忠氏が築き始めた城です。でも忠氏は若くして亡くなります。その跡を息子の忠晴(吉晴の孫)が継ぎ、松江城を完成させるのです。堀尾吉晴は孫である忠晴の後見役として支え、松江城完成後に亡くなります。そんな堀尾吉晴の出身地が愛知県丹羽郡大口町にある、御供所城(ごくしょじょう)跡です。
では現状どうなっているのか、ポイントをチェックしてみましょう!
■堀尾吉晴邸跡の石碑の住所■
丹羽郡大口町堀尾跡2丁目28
屋敷跡は八剣神社
堀尾屋敷跡は現在、八剱(やつるぎ)神社になっています。その傍らに住吉神社があって、堀尾吉晴生誕地の石碑があるのです。堀尾氏はもともと、この地を治めていた国人(豪族)で、その拠点というか住まいが堀尾屋敷です。だから当時の規模はよくわからないものの、豪族の館なのでかなり広い敷地だったと思います。
境内にある大口町教育委員会の看板には次のように書かれています。
八剱神社境内は、のちの松江城主堀尾吉晴を生んだ堀尾家累代の邸宅跡と伝えられている。堀尾氏は、鎌倉時代の終わり頃、この地に移り住んだと思われ、『寛文村々覚書』(かんぶんむらむら おぼえがき)にも堀尾家の居館があったことが記されている。また裁断橋物語の堀尾金助も一族の一人である。
昭和四十八年十月五日指定 大口町教育委員会
ところで八剱神社と住吉神社の間に水路があります。もしかするとこれはかつて屋敷を囲んでいた堀跡?と思ってしまいそうな水路です…
堀尾金助と母の像
住吉神社の片隅に甲冑武者と女性の銅像があります。これは堀尾吉晴の一族である、堀尾金助と母の銅像なのです。堀尾金助は18歳で堀尾吉晴と共に小田原の陣に出陣しました。しかし山中城攻め(静岡県三島市)で討死してしまいます。母は息子の死を悲しみ、熱田(名古屋市熱田区)で息子の供養のために裁断橋(さいだんばし)の架替えを行います。その物語を示した像です。
私の感想
私の堀尾吉晴邸跡の感想ですが、ここは現在では有名戦国武将となった堀尾吉晴の生誕地、つまり生まれた場所ということで、戦国好きの方にオススメのスポットだと思いました。また隣には裁断橋物語を顕彰した堀尾跡公園や、近くには堀尾吉晴、堀尾金助、その母の供養塔がある桂林寺もあるので、これらとセットにするとまるっと楽しめると思います。