清須市の正覚寺は今川義元の供養塔・今川塚と西郷局(お愛の方)の供養塔が残る寺院です。
■正覚寺の住所■
清須市須ケ口332
正覚寺の創建は関ヶ原合戦後の慶長八年(1603)、清洲城主・松平忠吉(徳川家康四男)が生母である宝台院(お愛の方)の菩提を弔う為に開いたのが始まりと伝えられています。今川塚はもともと別の場所にあって、平成十九年に正覚寺に移されました。
松平忠吉とは
松平忠吉とは徳川家康の四男。母は家康の側室・お愛の方(西郷局:宝台院)。妻は徳川四天王のひとりに数えられている井伊直政の娘・政子。関ヶ原合戦で島津軍を追撃していた時、銃弾を浴び負傷。その傷がもとで慶長十二年(1607)、28歳で亡くなる。
寺の由来
正覚寺の入り口に看板が建っています。スマホやiPhoneだと見づらいと思いますので、看板に書いてある文字を起こしてみます。
関ヶ原の戦いの功で清洲城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、亡き西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、前任地の忍(埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を慶長八年(1603)に、ここ清洲外町に移したのが当時の始まり。満誉上人を開山とした。
忠吉は寺野村で百石の寺領を寄進するなど、保護に努めたが、慶長十二年(1607)、28歳の若さで跡継ぎもなく江戸にて逝去した。 徳川家康の命により葬儀は増上寺で営まれ、位牌は当寺に安置された。翌年の一周忌法要は、家康制札のもと、21日間と長行が当時で行われた。
慶長十五年(1610)に始まる清洲越で、当寺は忠吉の法名から大雄山性高院と改名して名古屋に移され、忠吉の菩提寺となった。 一方、その後すぐ清須の窮地にも、旧名のままで再建されたのが当寺で、宝台院の菩提、性高院の位牌、忠吉に殉じた4名の家臣の位牌を護る由緒ある寺院としてこの地に続いてきた。
美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、忠吉母子の供養塔である宝篋印塔。仏足石、桶狭間の戦いで倒れた今川義元に関わる今川塚供養碑(2007年移設)、須ヶ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことができる。
美濃路まちづくり推進協議会
今川塚
これが今川義元の供養塔・今川塚。永禄三年(1560)の桶狭間合戦で織田信長は、今川義元を討ち取りました。
【信長公記】によると、清洲城外の須ケ口(すかぐち)に義元塚を築かせて、ここで供養のために千部経を読経させ、大きな卒塔婆を建てました。
※ちなみに須ケ口の地名の由来ですが、清須の入り口という意味といわれています。
その後、寛文元年(1661)、正覚寺六代三誉上人と念仏講同行十四名の名前が刻まれた、生前供養のための石碑が建立されました。これが現在の今川塚供養碑と伝えられています。つまり織田信長が建てた時代のものとは違うみたいです。
前述しましたが、この石碑はもとは名鉄・須ヶ口駅近くの民家にありましたが、平成十九年の正覚寺に移されました。もともとは民家の敷地内にあり、整備するために今川塚を正覚寺に移したそうです。
以前、愛知県や名古屋市の城や戦国史跡を巡る、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC)で正覚寺の今川塚を訪れた時のこと。江戸時代のものながらこれだけキレイな状態で現代に残っているのはスゴイ!という意見もありました。
西郷局の供養塔
墓地に進むと中央あたりに大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。これが徳川家康の側室で松平忠吉の母である、お愛の方(西郷局:さいごうのつぼね)の供養塔です。
案内看板にもあるように、正覚寺は松平忠吉が母である、お愛の方(西郷局:宝台院)の菩提を弔うために建立した寺院なので、その墓というよりも供養塔なのでしょう。
ちなみに令和五年(2023)のNHK大河ドラマ・どうする家康では広瀬アリスさんがお愛の方(西郷局:宝台院)を演じるということで話題になりました。
そして美濃路
正覚寺の前の道は、旧街道の美濃路。江戸時代の中仙道と東海道を結ぶ街道です。江戸時代に美濃路として整備される前、もともと何かの街道があり、それが美濃路となったのでしょう。ちなみにまっすぐ北に進むと、清洲城近くの旧清洲宿に出ます。
私の感想
私の今川塚の感想ですが、これも貴重な戦国時代ゆかりの史跡だと思います。その理由は、江戸時代の塚ですが、義元の供養塔を須ケ口に建てさせたことは信長公記にも残っており、これもその須ケ口に建てられた塚だからです。一見すると、今川義元の墓みたいに思えますが、これは墓ではありません。
またお愛の方(西郷局:宝台院)の供養塔ですが、彼女自体、あまり有名ではないものの、令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康で広瀬アリスさんがお愛の方役なので、ファンの方も多く訪れそうです。
この正覚寺は、場所的にも清洲城に近いので、車があるならセットで周ることもできると思います。