織田信長の居城として知られる清洲城がある清洲は、慶長十七年(1612)に名古屋城が完成すると、町をまるっと名古屋に引っ越しすることになりました。世にいう清洲越し(きよすごし)です。
この時、清洲城も廃城になり、江戸時代の絵図にはすでに畑になっていて、かつての清洲城の遺構はほぼ残っていませんでした。
しかし平成八年(1996)に清洲城天守近くの五条川で河川改修工事が行われた時、清洲越し直前の清洲城の石垣が発見されました。そしてどんな石垣だったのかを復元展示してあります。
石垣が出た場所はここ!
まず石垣が出土した場所について。清洲城に行った経験がある人ならわかりやすいと思いますが、出土した場所は信長と帰蝶(濃姫)の銅像がある公園の前の河川敷あたり。ちょうど織田家の家紋・織田木瓜(おだもっこう)のデザインタイルがある辺りです。
復元石垣の場所
出土した場所は河川改修工事が進められましたので、石垣も無くなりましたが、出土した石垣の復元展示は別の場所にあります。清洲城の無料休憩所・ふるさとのやかたの隣です。
石垣の構造
現地には石垣の断面図があり、その構造を知ることができます。これは水面が記載されてありますので、五条川にあった時の石垣の構造です。
簡単にいうと、川底にあった石垣なので地盤沈下で沈まないように杭で固定された枕木という木を敷いてありました。表面の石の後ろには裏込め石という小さな石が敷き詰められており、隙間を埋めてあります。
野面積み(のづらづみ)という工法で、自然石をパズルみたいに組み合わせて築いてあります。
これが胴木(どうぎ)。川底に直接築くのではなく、この胴木の上から石垣を築きます。これは清洲城に限ったことではなく、名古屋城など水堀に石垣を築く時に用いられる方法です。
ちなみに胴木の木の種類は腐りにくい松が多く用いられます。
私の感想
私の清洲城の復元石垣の感想ですが、これも天守閣や天守台と共に清洲城の見どころのひとつだと思います。ただ目立ちにくいもので、季節によると風景に溶け込んでスルーしてしまいそうな場所にあります。ふるさとのやかた近くにあるので要チェックの石垣です!