豊田市志賀町に残る古瀬間城址は、長沢松平氏のひとち松平宗忠が築いた城といわれています。一方で足助鈴木氏の城と構造が似ているので、鈴木氏の築城説もあります。浄願寺の裏山が古瀬間城址です。
浄願寺境内の奥へ行くと古瀬間城址への登城口があります。所要時間は歩いて数分。この位置関係を見ると浄願寺は城主の館跡だったのかもしれません。途中に古瀬間城を築いたといわれる松平宗忠の墓があります。
登城口を進むと門がありますが、これはイノシシ除けの門なので鍵はありません。ここを開けて中に入ります。途中で道が入り組んでおり虎口のようにも見えました。
浄願寺から歩いて数分。古瀬間城址の縄張図の看板がありました。これを見ると主郭(本丸)がメインで周辺に腰曲輪(帯曲輪)を配置した縄張というのがわかります。ここで注目したいのが立地です。現在の国道301号線は、かっての挙母街道(ころもかいどう)または新城街道ともいわれ、、それを見下ろす様な場所に古瀬間城が築かれています。
現在の地図(左)と明治時代の古地図(右)で見てみます。ファミリーマート豊田志賀店の前を通るのが国道301号線。かつての街道です。
そして城内
主郭(本丸)は削平地になっており梅の木が植樹されていました。訪れたのが2月中旬頃だったので梅の開花を見ることができました。後ろにあるのが展望台。登ることができます。
展望台からは西の景色が見えます。かつて城があった時代も物見櫓みたいなものがあり、こうやって周辺を見渡すことができたのでしょう。
本丸周辺に残る腰曲輪(帯曲輪とも)。高低差は2mも無いくらいでした。
小督局とは
本丸(主郭)の反対側に進むと小督局(こごうのつぼね)の供養塔といわれるものがありす。浄願寺が管理しているものでしょうか。移転していないなら戦国時代にはすでにこの地にあったことになりますね。
藤原成範(ふじわらの しげのり)の娘で、平安末期屈指の美女・琴の名手。高倉天皇に深く愛されたが、平清盛の怒りに触れ宮中を追われ出家させられた。悲劇のヒロインとして『平家物語』にも登場する。
全国各地に「小督局が逃げ延びてきた」という伝説があるが、豊田市にも「京から逃れて古瀬間の地に隠れ住み、この地で亡くなった」という伝承が根付いている。
所要時間と私の感想
古瀬間城址の所要時間は登って巡って降りてきて約20分ほど。私の感想ですが古瀬間城址は規模は大きくありませんが、街道をしっかりと押さえていた城というのが現地でよくわかりました。2月に行くと梅も見ることができる城です。