豊田市神殿町の大桑城址はこの地の土豪・河合弥十郎の居城跡です。歴史を振り返ると徳川家康や甲斐の武田軍も攻め落としています。
現地看板より
大桑城は、巴川と大桑川の合流地点南方の高所に築かれた中世の山城です。この城の城主は大桑村古屋敷の河合弥十郎と伝えられています。城主は常には山を下りた平坦な場所に住んでいました。そして戦になるとこの城を拠点に敵と立ち向かうことになります。
この城をめぐる戦が多かったことは【東照軍艦】の記述にあり、天文十九年(1550)、駿河の今川義元に従わない者の中に弥十郎の名が出てきます。また、永禄八年(1565)、徳川家康が大沼、田代へ出陣したときに大桑の弥十郎を引き付けて帰陣したとあります。その後、戦は激しさを増し、大桑城は甲斐の武田軍に攻め落とされたといわれています。
豊田市教育委員会
甲斐の武田氏は現在の豊田市周辺にも侵出しており足助城なども落とされています。
そして城内
豊田市立巴ヶ丘小学校横の山が大桑城址です。ふもとから城趾への所要時間は約3分ほど。現地看板に縄張り図がありました。大きな主郭(本丸)を中心に堀、土塁、帯曲輪そして土橋といったシンプルな縄張りですです。
入口の土橋(どばし)を城内から見た様子。土橋とは両側が堀になっている細い通路。これにより敵は横展開ができずかなり狭い範囲で城門を壊すことになります。また大桑城址は城内が土橋より高くなっており、攻める敵は高い位置から攻撃されます。
本丸の土塁。かつては本丸を巻いていたのでしょう。
本丸は中心部分に祠があります。周辺の帯曲輪はかなり狭く、草木が生い茂っているので降りるのがかなり困難でした。
所要時間と私の感想
大桑城址の所要時間は約10分ほど。私の感想ですが縄張りはシンプルですが交通の要所にあった城なので徳川軍や武田軍も攻め落として自軍の城にしておきたかったと思います。また現地のもうひとつの看板にあった時上ケ、別当の字名も城ゆかりの関連地名だと思います。